そこから南東にI90高速道路を車で一時間ほど走らせた先のカヤホガ郡、ロッキーリバー市。その近隣は超白人街、ダウンタウンとは打って変わって安全地帯と言われる地域に私は住んでいた。
普段の生活シーンで黒人と会うことは皆無なほど、露骨に白人種しか住んでいない地域で、私が編入したのはRocky River Jr. High Schoolの6th Grade、いわゆる六年生。6th Gradeから8th Gradeまで九割以上白人、アジア人は学校全体で数名、日本人は私だけ。
しかも英語を喋れない日本人を受け入れるのはその学校史上初めてだったこともあり、父が学校と交渉をして、アルファベットのABCから勉強するような特別コースのチューターをつけてくれた。
そんな配慮や、私のアウトゴーイングでアクティブな性格も相まって、三カ月ほどで相手の言っていることが理解できるようになり、半年後には英語がペラペラになっていた。
父の方針で、アメリカに来たからには英語漬けになれ!と五年間一日たりとも日本人学校に通うことはなく、現地の生活に溶け込んでいき、私の個性はアメリカナイズされていった。
今でこそ、「多様性」、「LGBTQIA+」、「人種差別反対」、そういったことが世界中で社会現象化しているが、私がアメリカに引っ越した一九八二年当初は全く違っていた。先述の通り、黒人を締め出しているような印象の、極めて違和感を覚えざるをえない白人だらけの白人街。当の日本人である私も、ゆえに、周囲からみて「アジア人」、「外国人」と認知されているきらいがあった。
当然アジア人であるし、外国人でもあるので、そこに異論はないのだが、私はアメリカ滞在中に一部の心ない人達からいじめられることもあった人種差別の被害者・経験者である。
〝Jap!〟、〝Yellow Monkey!〟、〝Pearl Harbor!〟、〝Rice Peddler!〟、〝Go back to yourown country!〟(ジャップ! 黄色人種モンキー! 真珠湾攻撃! 米食い商人! 自分の国へ帰れ!)。一部ではあったが、こんなことを言われることはしょっちゅうだった。
学生だけではなく、先生からも差別を受けることもあり、それはそれは小中学生なりに、人生の中で屈辱を味わった体験、孤独を感じた経験だった。
大方アメリカ人しかいない学校の中でたった一人の日本人だったため、学校に行くことが辛かった時もあるほど、深い傷を負ったこともあった。ただ、これは今の私には絶対に欠かすことができない大きな価値観に結びついている。