さらに綾野さんのケース。綾野さんは買物を兼ねた散歩をいつも希望しているがスタッフたちの都合でその希望がいつも叶えられるということはない。それを知った私は自分がスーパーに買物に出る時は彼女を誘うようにした。外出時には杖を持つ彼女を道路の内側にして私はその外側を歩いた。

夏の異常な猛暑が続いた年、私はホームを出るのは四時過ぎと決めていた。東京は夕方になると風の吹くことが多いし、買物を終えて帰る時間でもまだ十分に明るいからである。

しかも四時を回るとホームからスーパーに続く道はすべて建物の影に入るので決して暑いとは思わなかった。もちろん建物間の二、三メートル、日の射すところもあるが住宅の密集する街でその距離は決して長いものではない。

ところがある日、綾野さんと連れだって玄関口でドアを開けてくれるように言うとケアマネが出てきた(ホームのドアは入居者が勝手に開けることができないように造られている)。

「綾野さんの娘さんから暑い季節は散歩に出さないようにと電話が入っています」(綾野さんには二人の娘さんがいるが、京都にいる長女が保証人と聞いていた。京都は盆地でその暑さは東京以上である。京都の猛暑を考えてのことだというのは私にも理解できた)。

「えっ、だってもう四時を過ぎていますよ。駅までの道がずっと日陰だということをホームの人たちは知らないのですか」

多分私の口調は強いものになっていただろう。

「娘さんから夏の暑い季節は散歩に出ないように言われていますので」

ケアマネは同じことをくりかえした。綾野さんに代わって私は言った。

「ご家族が心配なさるのはわかります。それにご家族から言われたことを守ろうとするホーム側の立場もわかります。だけど、当の私たちはどうなんですか。私たちの権利(こんな強い言葉まで出ていた)はどうなるんですか」

 

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