【前回の記事を読む】2人で滝に行き、体を洗い、マンゴーをつまんだ。互いに向き合い、指先の力加減を読み、息遣いの深さを数え…
二〇〇五年 孝一@領事館
カルロが何かと、誰かと重なるのだが、その何かが思い出せない。
ある日、コイチはあばら家の補修をするために刃物を研いでいた。カルロは側に来て真似し始める。
「やってみるか?」
カルロの両手にコイチの両手を添え、水を少しかけながら石に当てるカナモノの角度を教える。カルロは呑み込みが早い。
自分の顔が映る刃を眺め「マジック!」と赤茶色の瞳を丸くした。伐った丸太の整理を手伝ってもらうために、コイチは自然に思い出せる方法で教えた。いち、に、さん。足し算、引き算もコイチは思い出し、カルロは難なく理解した。
「ステップ、バイ、ステップ」と楽し気に、日ごと知識の階段をつまずくことなく登っていく。掛け算、割り算を教えると「カケル、ワル」とつぶやきながらカマド改造に応用していた。
鋭く研いだ包丁で魚をさばく手順を教えると、二人が潜水で獲った魚をカルロの方が器用に扱えるようになった。
一を聞いて十を知る、という難しい言葉もコイチの頭の中に復活した。
この小さかった人間は、十どころじゃない、百も千も。いつから、こんなに何でも承知してるんだろう?
そんな彼がコイチを見る目に尊敬が込められている。
もしかしたら俺は、失った世界で敬われる人間だったんじゃないか。敬われるとは。メンツってのもあった気がする。どう違う?
ある朝ママが平らな抑揚で孝一に話しかけた。
「ザ、ボート」
いつものように男が小屋に入ってきた。早口の会話がいつもより続く。時々、みんながコイチを見る。
俺のことを話している。何を?
男はビールと塩漬け肉を差し出した。
「レッツゴー」
ローザとコイチを指差した。
選択肢はないようだ。俺はどうなる? ついに小屋を追い出されるのか? 島を追い出されるのか?
猿のミカエルがコイチの首にしがみつく。カルロも悲しそうに抱きついてくる。ボスであるママがミカエルと少年を優しく引き剥がした。
もう二度と、ここには戻らない、ということなのか? どこに連れて行かれるのか? この男は敵か味方か? 同行するローザはどちらの側なのか?
不安は増すばかりだったが砂浜に出た。二度と見ないかもしれない弧を描く白浜。
椰子の木に立て掛けたボートを男が軽々と片手で浅瀬に置いた。躊躇するコイチに手招きし、ローザが孝一の手を取り先にボートに乗る。男がボートを押し、浮かんだ瞬間ひらりとボートに飛び乗った。
青い澄んだ海の下の白い砂に、ボートの影が夢のように映る。青と白の宇宙に浮かんでいるような幻想に浸った。
この足の下の空間を知っている。水中なのに水の気配がないほど透明で、思わず鼻で息をしてしまったことがある。
が、幻想は不安に追い払われた。船に乗り換え、島を後にする。遠ざかる船から見る島が小さくなっていく。棲んでいた島を初めて認識した。険しい山々が三つそびえ、どの頂きも吹き飛ばされたかのように平らになっている。特に真ん中の一番高い頂きは円錐に近く美しい。そこからうっすらと細く煙が湧き上がっている。