二〇〇四年 孝一@転職先
「基本給、低くて申し訳ないね」
転職後、初めての給料日だった。
「子どもいても未婚だと、所得税、まんま取られるんだね。住民税も独り身と同じなのは辛いねぇ」
新しい雇い主が同情する。
「ウチも子どもいるけどさ、結婚届出しての子どもが。四十過ぎてできた子だからメロメロなんだ」
胸ポケットから透明なプラスチック片を出して孝一に見せた。プラスチックに挟まれた紙切れに「ぱぱだいすき」と幼い字で書いてある。
「どっかで叫びたいでしょ、ワタシは未婚ですがワタシの子が高齢者の年金や医者代、払うようになるんですって」
その紙切れに頬を緩ませ戻した。
「国の借金を払うのは若い世代。僕たち世代以上は借金踏み倒したまんま先進国の国民として天寿を全うできる」
「はぁ」
孝一は首をひねった。
「とにかくこちらでは時間の融通を利かせてもらえて、有難いです」
「個人だと親の借金は相続放棄できるけど」
雇い主はよくしゃべる。
「国家だと、若い世代は、上世代の費用を相続放棄できないんだよね」
「そんなこと、考えたことありません」
孝一は大きな体を小さくした。
「気ぃ使わないで。思考が止まっちゃう。ウチは零細だから知恵だけが頼り。僕の趣味でもあるワイヤレスの世界じゃ暗号化の技術が進み始めてる」
「私がここでの仕事についていけるのか」
孝一はため息をこらえた。
「そういう技術について知識が何もないですから」
「今から教えてあげるよ!」
所長は全面ホワイトボードになっている壁へ腰かけたまま滑って行った。
「空気の中を伝わってるものは見えないけど、見えないことほど重要って、言うじゃない?」
ホワイトボードの前で立ち上がると孝一に向いた。
孝一は昔、教科書で読んだフランスかどこかの作家が言った「大切なものは目に見えない」を思い出した。愛についてだった気がする。
「触ることができないソフトウェア。アルゴリズムも見えない。それから」
所長は続ける。
「数学や物理を応用した分野の通信! 何百年か前まで、山のてっぺんで火を焚いた狼煙(のろし)が、一つの集団の生死を分けたでしょ」
「のろし、ですか」
孝一は、この人が数学の先生だったらちょっとは興味が持てたかもしれない、と思った。
翌日も、翌週も、数分の隙間があれば魔術講座、と言いながら算数と理科に始まる数学と物理を、所長は孝一に教え続けた。
「気がついてるだろうけど、探偵って看板だけどね、浮気調査だけじゃないんだ」
ある日所長は身を乗り出した。
「ちょっと変わった話が来てね」
「はい」
「お子さん今度、入学だって?」
やけに優しい言い方が不気味だ。
「ま、座って」
来客用の椅子を勧めた。
「はい、お陰様で」
次回更新は10月25日(土)、20時の予定です。
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