【前回の記事を読む】鋭い声が聞こえ、隣の部屋の前に警察が…母親は連行され、子供の行き先は「多分、施設」
二〇〇三年 玉手箱@アパート
孝一は透明なゴミ袋の中、オレンジ色のボックスに気がついた。
ナオちゃんが化粧品を入れていた。
思わず、袋から取り出した。鍵はダイヤル式。
四桁の暗証番号は変えていなければ俺の誕生日だ。ナオちゃんが決めた。
ダイヤルは四つの数字に反応した。開けると、裏返しにした写真と小さい本が水色のリボンで括られ一番上にある。リボンを解く。写真は、サーロインとシャトーブリアンの二皿を前にした二人だった。
この店からの誕生日プレゼントの写真。幸せそうに頬を寄せている。小さい本の表紙には「母子手帳」と書かれている。聞いたことはある気がするが初めて聞く言葉のようでもある。
表紙をめくると孝一の名前があった。父親の欄、ナオミの几帳面な字で。
俺の子? ピンとこない。
スローモーションの中で必死に駆けている感覚になる。両腕両脚を無我夢中で動かしているのに、前に進まない。心臓も筋肉も限界まで動いているのに! 叫んでいるのに声にならない!
その白昼夢のただなかにいる孝一はボックスの前にしゃがみ続ける。
父親は刑務所にいる誰かじゃない。雲の上にいる誰かでもない。
この字はナオミの手書きに間違いない。幅広く伸び伸びして、トメもㇵネもキッチリと記す。
真実は突然だと受け入れられない。劇的な変化をもたらす事実ならなおさら心は拒否する。キリ揉みしながら落下する飛行機そのものになった気がする。会社での失敗がなぜだか思い出された。
メンツだけの上司。俺よりできる新人。理不尽な取引先。下の人間に向かって尊大、上の人間に向かって卑屈な縦社会。そんな仕事社会が俺の人生の全部だ。
だった。
まわりで宇宙がゆっくり、変わり始める。
俺の子だ。俺は父親になっていた。受け入れなければ。義務だ。いや、嬉しいはずだ。喜べ! 前向きに考えるんだ!
突然の責任を、それも一人の人間の人生、命という重い責任を負った気がする。
押しつぶされそうになる。
沈み込みそうになりながら母子手帳のページをめくった。
超音波検査の写真が五枚、丁寧に貼り付けてある。胎内で小さな人間が少しずつ成長していく様子。最初の一枚の単位がミリ。そしてセンチに変わる。最後の写真は顔で、目も、鼻も、口も、あの子だった。
あの子が、俺の子。俺には子どもがいる。
ページを更にめくると、数ある予防接種の記録も全て残されていた。ナオミは真剣にあの子を育てていたんだ。
孝一の心臓が激しく波打つ。鼓動が、爆発しそうなくらい聞こえる。
オヤジの声が突然蘇る。俺は何歳だったんだろう、オヤジは俺を寝かしつけるために時々、おとぎ話をしてくれた。オヤジの定番は浦島太郎。
玉手箱を開けたら、というオチは不思議でしようがなかった。
目の前にあるこのオレンジの箱が玉手箱だと思えてきた。
人間は死んだら終わりだと思っていた。俺は、終わらないかもしれない、と何かが囁き始めた。
孝一の、時間の経過は留まり戻り、先に飛ぶ。
全世界の中心は自分だった。中心は当たり前すぎて考えたことも無かった。中心? そう、中心、というものが存在する。
生まれて初めて気がついた。自分より大切な存在なんて考えたこともなかった。
猛烈な震えが背骨から地面へ走り抜ける。
孝一はその母子手帳を持って行けば警察に情報を提供してもらえるかもしれないと気がついた。
留置所という場所にいると知り、その足で訪ねた。しかしナオミには会えない。拒絶されているらしい。
せめて子どもを引き取りたいと申し出た。長く待たされた小部屋に職員が戻ってきた。
「子どもの母親は、あなたを父親と認めました」
喜びと不安が同時に押し寄せる。