「会ってないのに、ここに来ている私が、母子手帳の名前の人間だと、どうやってわかるんですか」
職員は顔を動かさず目だけを一瞬、右の鏡に動かした。
「お母さんはあなたを見ることができたんです」
孝一は席を立ち、鏡に顔を寄せた。
「そこに、いるのか。何で、いなくなったんだよ。子どもがいたなんて」
両手のひらを押し付けた。何も聞こえない。
「ナオミさんは」
孝一は職員に向いた。
「どうなるんですか」
「答えることができないんです」
小部屋を追い出されることもなく待たされ続けた。不安と期待が交錯する。途中、救急車のサイレンが近づき建物の前で止まった。窓がないから外の様子がわからない。胸騒ぎがする。二時間後、ついに呼ばれた。
「さあ、行きましょう」
職員が促した。
「どこへ?」
心臓が沸騰する。
「あの車に乗っていただけますか」
職員はそれ以上言わない。運転手は若い警官で行き先を告げた。
「なぜ、病院に?」
「倒れて運ばれました」
到着すると、廊下にはあの男の子がいた。施設の職員らしき人に連れられて。
間に合わなかった。
「くも膜下出血です」
医師が告げる。
「二十七歳ですよ?」
何かの間違いだ。
「これくらいの方にもあるんです」
担当医は深く礼をして去った。
「よっぽど長いこと、苦労されてたのかもしれませんね」
ベテランらしい看護師がそっと慰める。
「自覚症状があっても我慢してたのかもしれません」
「そんな!」
孝一は看護師にすがりついた。
「会いたかった!」
警察官の両腕が孝一を看護師から引き剝がした。
「ご本人の意思です。今の姿を見られたくない、と」
悪夢が続いているだけだと決めた。
次回更新は10月23日(木)、20時の予定です。
【イチオシ記事】二階へ上がるとすぐに男女の喘ぎ声が聞こえてきた。「このフロアが性交室となっています。」目のやり場に困りながら、男の後について歩くと…
【注目記事】8年前、娘が自死した。私の再婚相手が原因だった。娘の心は壊れていって、最終的にマンションの踊り場から飛び降りた。