「克己心」

元より、人生に「勝ち負け」が無いことは自明の理であるが、もし、人生に「勝ち負け」が在るとすれば、それは自分以外の相手(他者)との競争による勝ち負けではなく、自分自身の「克己心」との競争による勝ち負けのことだろう。

他者との「競争」に勝ったとしても、決して自分が優れているとは限らない。

何故ならその「競争」する他者のレベルが低い場合には、単に低いレベルでの勝者となっただけのことで、高いレベルでの勝者とは云えないからである。

ならば、高いレベルでの「競争」に勝てばよいのではないのか?と思うであろうが、何をしてそれが高いレベルであるのかは客観的判定が難しい。

一般的に、レベルの高い大学と云えば、オックスフォード大学、ハーバード大学、マサチューセッツ工科大学、東京大学、京都大学、等々であるが、世界第1位と評されるハーバード大学ですら、学内の学生には、首席から落第生まで様々な方が在校する。

結局、他者との曖昧な「競争」に勝ったとしても、そのレベルでの勝敗が付くだけで、決して自分が他者より優れているという証明にはならない。

それに比べて、自分自身の「克己心」との戦いは、壮絶を極める。

先ず自分自身の中に「弱さ」が、無限の様に山積されているからである。

意志の弱さ、怠惰、優柔不断、欲望への弱さ、向学心の無さ、数え上げたら、誰でもキリが無い。

「克己心」とは一般的な辞書には「自分の欲望をおさえる心、自制心」とあるが、広義では「自らを戒め、自らを律し、自らを正す心」だ。

日に日に、馴れ合いになっていく、社会と自分。

日に日に、徐々に疑問を感じなくなる、仲間と自分。

日に日に、諦めと怠惰に侵食される、家族と自分。

「今日の私は、昨日の私とは、全く異なる。そして、明日の私は、今日の私とも、また全く異なる」

いつも、いつも、声高く、そう叫び続けたいものだ。