外套の左ポケットからおもむろにパイプを取り出したその男は、それを銜え込み、左手をかざしながらライターで火を点けると、いつものように頬を二、三回膨らませた。すると首尾良く着火したのだろう、一度肩をわずかに持ち上げると、気持ち良さそうに白い煙を吐き出した。
男は少し迷っていた様子だったが、結局考え直したかのように何度か頭を小さく横に振って階段を下り始めた。恐らく、タクシーを呼ぶかどうか迷っていた様子だった。
しかしその日は風もなく、比較的気持ちの良い晩だったので、家まで歩いて帰ることにしたのだろう。ゆっくり歩いても、男が住んでいるメイフェアのフラットまでは三十分ほどの距離である。
テムズ川の方角から漂ってくる仄かな風と共に、零時を告げる鐘の音がビッグ・ベンから流れてきて、彼の身体を包み込んだ。男は右を振り向き、それらしい方角を見遣りながら、もう零時なのかというような顔付きをした。
歳のころ七十を少し超えているのだろうか、銀髪で細長い顔にかけられた太い黒縁の眼鏡の上で、幾分神経質そうに眉をくねらせるのが見えた。実はある考え事をするために、わざわざポートマン倶楽部に赴いたのだが、そこでは長老と呼ばれるこの男に、ゆっくりものごとを考えさせるような余裕は与えられなかった。
顔見知りの紳士たちが入れ代わり立ち代わり現れては、彼のご機嫌をとって帰って行ったからである。だからこんな気持ちの良い晩こそは、パイプを燻らせ、一人でゆっくり家まで歩き、倶楽部で果たせなかった例の問題でも考えてみようと思いついたのだった。
※本記事は、2020年8月刊行の書籍『緋色を背景にする女の肖像』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。
【登場人物】
宗像 俊介:主人公、写真家、芸術全般に造詣が深い。一九五五年生まれ、46歳
磯原 錬三:世界的に著名な建築家一九二九年生、72歳
心地 顕:ロンドンで活躍する美術評論家、宗像とは大学の同級生、46歳
ピエトロ・フェラーラ:ミステリアスな“緋色を背景にする女の肖像”の絵を26点描き残し夭折したイタリアの天才画家。一九三四年生まれ
アンナ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラーの妻、絵のモデルになった絶世の美人。一九三七年生まれ、64歳
ユーラ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラの娘、7歳の時サルデーニャで亡くなる。一九六三年生まれ
ミッシェル・アンドレ:イギリス美術評論界の長老評論家。一九二七年生まれ、74歳
コジモ・エステ:《エステ画廊》社長、急死した《ロイド財団》会長の親友。一九三一年生まれ、70歳
エドワード・ヴォーン:コジモの親友で《ロイド財団》の会長。一九三〇年生まれ、71歳
エリザベス・ヴォーン:同右娘、グラフィックデザイナー。一九六五年生まれ、36歳
ヴィクトワール・ルッシュ:大財閥の会長、ルッシュ現代美術館の創設者。一九二六年生まれ、75歳
ピーター・オーター:ルッシュ現代美術館設計コンペ一等当選建築家。一九三四年生まれ、67歳
ソフィー・オーター:ピーター・オーターの妻、アイリーンの母。
アイリーン・レガット:ピーター・オーターの娘、ニューヨークの建築家ウィリアム・レガットの妻。38歳
ウィリアム・レガット:ニューヨークでAURを主催する建築家。一九五八年生まれ、43歳
メリー・モーニントン:ナショナルギャラリー美術資料専門委員。一九六六年生まれ、35歳
A・ハウエル:リスボンに住む女流画家
蒼井 哉:本郷の骨董店《蟄居堂》の店主
ミン夫人:ハンブルグに住む大富豪
イーゴール・ソレモフ:競売でフェラーラの絵を落札したバーゼルの謎の美術商