転居と転校 ―コンプレックスの目覚め―   

それでも私は、希望に胸を膨らませて生誕地である隣の滋賀県大津市に引っ越した。しかし、そこは驚きの連続であった。まず住まいはマッチ箱のようなアパートだった。

間取りは一部屋で、外便所、風呂なしで、勉強部屋がなかった。それが一番ショックで、その場に立ちすくんだ。家主は町工場を営んでいて、敷地が広くて大きな家に住んでいた。ここでも家主と小さな借家に住む間借り人という図式であった。

母の顔を何度も窺った。母もまだ35歳の若さであるので就職して何とかするつもりで、落ち着いたらすぐに転居するからと仮住まいを強調していた。近くにマンモス団地が建設中だったので、そこでもいいと思っていたが、母は入居申請することさえしなかった。

あんなに父には懇願していたのにと、もどかしさを感じた。就職先はなんとか探して働いてはくれたのだが、とうとう中学卒業まで転居はなかった。母のように一軒家が欲しいのではなく、私はただ勉強部屋が欲しかっただけだったが、当時はなかなか思うようにはいかなかった。

新学年を迎えて、転校先の中学校2年生のクラスで紹介された。恥ずかしくて言葉も出なかった。女子生徒の「カッコイイ」という声が耳に入った。

 

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