「君、工藤言うんやろ。工藤ちゃん。探偵物語。松田優作の当たり役や」
男はそう言ってまた笑った。不気味な笑みだった。
「なあ、工藤ちゃん。君、やりすぎやで。もう少しで人殺しになるとこや」
博昭はまだ事態が呑み込めていなかった。理解できていたのは、自分がこの男に負けたということだけだ。
生涯初の敗北。
博昭は動揺していた、動揺している自分に気づいてさらに驚いた。
負けた。この俺が喧嘩で敗北した。
しかも失神。
「何もんだ」博昭は言った。
「風間。君は工藤。銀ちゃんと工藤ちゃんや」
そう言うと、男は突然、「ヤスーーー!」と大声で叫んだ。「立ち上がってこいー。ヤスー。立ち上がってこいー!」
最後はほとんど絶叫だった。
「『蒲田行進曲』や。あれはええ映画やったなあ。あの風間杜夫は最高やったなあ。ちなみに松田優作の『野獣死すべし』も必見やで。あっ、工藤ちゃんはどちらかいうと、『探偵物語』というより、『野獣死すべし』やな」
「おい」
博昭は立ち上がった。 こんなふざけたおやじに負けるわけがない。油断だ。油断さえしなければ絶対に勝てる。
「おっ、工藤ちゃん。またごっつい殺気出して。嫌やなあ」
風間は不自然な笑みを顔に張り付けたまま珈琲を飲んだ。
「もう一度勝負しろ」
博昭は言った。
風間は考えているそぶりを見せた。
そして静かに息を吐いた。
「ええで。そやけど条件がある」
「なんだ」
博昭は聞いた。
「工藤ちゃんが負けたら、俺の言うことは何でもきかなあかん。命令や。ええか」
博昭は目を剥いた。いらついているのが自分でもわかった。
「いいだろう。立て」
風間が立ち上がった。
顔から笑みが消えていた。
風間の家には道場があった。畳にして三十畳くらいか。額には『虚』という字が書かれており、壁には白い道着が掛けられている。
「たまに近所の子供らに教えてんねん」緊張感のまったく感じられない声で風間が言った。パンツ一丁になりながら、道着に着替えている。
風間の肉体は鍛えられたボクサーのようだった。細身だが、無駄な脂肪のまったくない引き締まった体。
博昭はすぐにわかった。風間の体はボディービルダーのような作られた筋肉ではなく、実戦で鍛えられた筋肉。つまり、本物の格闘家だ。
「工藤ちゃんは空手か? そやろ? さっきの蹴り見てたらわかるわ」
柔道家だろうと博昭は踏んでいた。だが、他の格闘技にも詳しいらしい。さっきの数回の蹴りで、博昭が空手をやっていたことを見抜いている。
捕まりさえしなければ勝てる。
博昭はそう思った。
風間が帯を締めた。黒帯だった。
「よし、ええで」
風間は腿をぱんぱんと手のひらで叩いた。