三日目も滝本が騎乗する競争は組まれていない。結局この日も浅田が馬券を買うことはなかった。最終競走が終わって、正門付近に大きな人波が発生しているときのことである。騒動が勃発した。

警察の手入れが行われるようで、場所は桟敷席であるらしい。耳にした浅田は、野次馬根性を出した連中の後に続いた。

桟敷席の前の通りには五人の巡査がいた。一人も逃がすまいと、等間隔に立ち、睨みを利かせている。

一人、巡査に食ってかかっている男がいた。太っていて、老齢の域に入っているであろうことを、頭髪の色と薄さで窺わせている。

男は「俺は外から見てただけだ。なにもしていない。だから、帰らせてもらって、いいよな?」と言って、巡査の脇を通り過ぎようとした。しかし、手で制される。なおも逃げ出そうとする男だったが叶わず、巡査によって押し戻された。

膠着した状態が続く中、恰幅の良い男が、桟敷席の下に建てられた小屋の中から出てくる。手には大きな籠を持っていた。浅田は男のことをよく知っている。工藤英彦といい、野毛と保土ヶ谷を縄張りとする博徒集団、仙石一家の者である。浅田とは、一家の貸元(かしもと)と代貸(だいがし)という間柄にある。

工藤は最年長と思われる巡査の前に立ち、籠を地面に置く。そして「どう聞いているのか知らないが、ここでは注文を受けて馬券を代わりに買ってくることしかしていない」と、籠を指し示しながら言った。

巡査は屈み込み、中身を確かめる。十枚はつまみ上げただろうか。それら全てが本物であることを確認したようで、立ち上がって他の巡査に引き上げるように合図した。

馬券が本物であるのは間違いないだろう。しかし、買い求めたものではないはずだった。場内の至るところに打ち捨てられている馬券を拾い集めておけば、万一のときに買っていると言い逃れできる。

引き上げていく巡査らに、桟敷席から嘲笑や罵声が浴びせられた。先程小競り合いを起こした男が「一昨日来やがれ!」と叫ぶ。近くにいた工藤は、男の頭を小突いた。

桟敷席の中にいた人も、集まった野次馬連中らも、一斉に帰路に就く。浅田もそのうちの一人である。道中で背中を叩かれて振り返ると、洋服屋で「危うく、捕まるところだったよ」と笑顔で言った。

 

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