【前回の記事を読む】「兄さん、馬券は買えてるのかい?」親切心というより、自尊心があふれた男。一押しは7番・ダンジュウロウと言ったが...

惰走は駛走に変わる

競走で直線に入ったとき、男は七番の馬券を示してきた。ざっと数えても十枚はある。そして、競走が終わるとにやけた顔で払戻金を受け取りに行く。

表彰式には興味のない観客たちが引き上げていく中、浅田は残った。やがて、紫色の花柄のドレスを纏った外国の婦人に口取りされたダンジュウロウと滝本が現れる。

係員に第九競走の勝馬と勝利騎手として紹介されると、群衆が歓声を上げ、拍手を送る。滝本は手を上げてそれに応えていた。微笑んでいるようには見える。しかし、心ここにあらずといった印象は拭えなかった。この勝利はあくまでも通過点でしかない。そう考えているのかもしれないと、浅田には思えた。

二日目、第三競争と第四競走の合間には、人力車競走が組まれていた。一着の車夫には十円、二着には五円、三着には二円の賞金が出る。

車夫が準備している最中のことだった。桟敷席の様子を眺めていると「あそこでなにをやってるのか、気になってるみたいだな」と話しかけられた。声までは覚えていないが、思い当たる人間はいる。振り返ると、やはり、初日に競馬の予想を聞いた男だった。

「馬かけを観せているんだろう? ひょっとすると、ここよりも見やすそうなぐらいだからな」

男は首を横に振って「それだけなら、あんなに混み合うわけがない」と言った。

「なにをしてるっていうんだ?」

「儂(わし)は元町で洋服屋を経営してるんだが、あそこに入った近所の人から話を聞けた。馬券を買うのを代わりにやってくれる連中がいるらしい」

「なるほどね……」

「しかも、十銭単位で受けてくれるって話だ」

「一円単位で賭けるのが難しいってやつもいるだろうしな」

「頼むなら手数料はかからなくて、当たったら五分を差し引かれた払戻金を受け取れるらしい。噂が広まれば、さらに人が増えるだろう」

「うまいこと、考えたもんだ」

「ところで、今日も馬券は買っていないのかい? 売場では見かけなかった」

「別に慌てて買うこともないだろうと思ってね。今日はあいつ、イチは出ないようだし」

「気に入ったのか?」

「あれだけ一方的な競争を見せられたら、一目置かざるをえないだろう?」

「それもそうだな。まあ、知っておいて損のない騎手であるのは間違いない」

食事に行くという洋服屋を見送ると、浅田は再び桟敷席に視線を向けた。車夫競争は賭けの対象ではない。それでも多くの人の姿がある。