惰走は駛走に変わる
開催されている間は、横浜の貿易が止まる。話には聞いていたが、どうやら誇張されているわけではなかったようだ。
それを痛感できるほどに、競馬場へと続く道は、人や人力車、馬車で溢れている。
生麦事件の余波で、山手の外国人居留地の外れの根岸に、競馬場が建設されることとなったのは慶応二年のことである。
資金を出したのは江戸幕府で、イギリス駐屯軍の協力のもとで完成し、慶応三年には初開催、以降は毎年春と秋に開催されている。
期間中は、山下居留地の商館や銀行、医院までもが休業となり、男女の別なく、着飾って競馬場へと足を運ぶ。東京に住む外国人や各国の外交官までもが競馬のために、横浜へとやって来る。
元々は横浜居留地に住む外国人らの間で行われてきた競馬だが、明治になってからはか し 、皇族が招かれるようになり、明治十三年の春開催では、天皇陛下から優勝馬主へ賞品が下賜されている。
日本の政財界の要人にとっても、競馬は特別なものだった。明治十一年、主催する競馬会が日本人の入会を認めると、彼らは挙(こぞ)って会員として活動するようになった。
欧米の慣習である競馬と日本人との親和性を、外国人らに周知させるためである。その先には不平等条約の改正が待っているはずだった。
一般の日本人にも特別な行事として定着しつつある。しかし、地元の横浜界隈では競馬という呼び名は一般的なものではなく、親しみを込めて馬かけと呼ばれていた。
明治二十一年秋の開催日は、十月二十八日からの三日間だった。爽やかな秋晴れとなった初日、坂を上がって競馬場の正門近くまで来ると、木材で組み上げられた建物が見えてくる。