わが家は広大な山や田畑を所有していましたが、すべて借金の担保として差し押さえられてしまいました。祖父母は手足をもぎとられたような気持ちだったと思います。

当時、祖父は村長の経験もあり村中で知られた存在でしたが、一転してみじめで気の毒な立場となってしまいました。父が作った莫大な借金のために長年にわたり貧乏な生活を強いられました。

父親が真面目に会社勤めをして堅実な生活を送っていれば、家族に不幸も訪れず私たち兄弟の人生もまた違った形に進んでいたと思います。

しかし、このような境遇で育った私は、自分の人生を今では一切後悔していません。寧ろどん底からでも徐々に良くなればと思って、子どもの頃から明るく前向きに生きてきたつもりです。

借金漬けのみじめな生活の影響で、私自身は他人にお金を貸しても、決して他人からお金を借りることだけは今日までしないように生きてきました。

持論ですが、他人から平気でお金を借りる人を人間的にあまり信用していません。苦しくても、自ら貧乏にひたすら耐えるしかないと考えているからです。欲に目がくらんで金銭的な損をする人がいますが、自業自得だと考えています。

常に自らを律し、質素に徹する心構えが必要だと考えますし、家族や親しい仲間が信頼してくれていれば、金銭的な関係など寧ろないほうがいいと考えます。周囲の喜びや幸せは、必ず自分の喜びにつながります。

わが家の借金返済は長年に及び、ある程度完済されたのは私が高校を卒業する間近の頃でした。

小・中・高時代

入学した倉岳町立棚底小学校は、保育園より一段高くなった台地にありました。倉岳町は当時六千人強の人口でしたが、町の形が横長で小学校は五、六キロ間隔に三校ありました。

さらに二キロ先にある倉岳中学校は、生徒がそれぞれ三つの村の小学校三校から集まってきたので、いろんな学力レベルや習慣の違う生徒がいました。私が住んでいたのは周囲を山に囲まれた辺ぴな集落で、家は八軒しかありません。日中は鳥の鳴き声しか聞こえないような静かな村でした。

通学は四キロ余りの道のりを歩いて登校していました。下校時は道草ばかりして、途中の海岸や畑の道端でいつも仲間と遊びながら帰宅していたことを思い出します。

家に帰るとカバンをほうり投げて、毎日暗くなるまで外で遊んでいました。テレビもなかった時代ですから、野山を走り回ったり、近くの海に釣りに行ったり、貝掘りをして遊んだりする毎日でした。小学校の同級生たちも放課後に四キロを歩いて頻繁にうちに遊びに来てくれていました。

 

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