【前回の記事を読む】結婚後早々に愛人を何人もつくった父。母が私を妊娠中から離婚話が進んでいた。二人は、赤ん坊の私を抱いてあやすどころか…

前編|生い立ち

誕生から幼少期

私の性格は両親が不仲だったにもかかわらず卑屈にならず、当時から非常に開放的で明るく振る舞っていたようです。近くには仲のいい遊び友達も何人かいました。

当時、隣の肉屋さんと母親との相性が非常に悪く、私がしでかしたことが原因で、母親は時々肉屋さんから暴力を振るわれていましたので、遂には商売も諦めて、私も幼稚園を退園することになって、一年足らずで母と一緒に飯塚の実家で暮らすことになりました。

その後、母の実家でどのような話し合いがなされたのか私にはわからないまま、気が付くと母に連れられて熊本県天草郡の父の実家にたどり着いていました。母は一夜明けていなくなりましたが、当時五歳だった私は初めて、この世に父親や兄弟が存在することを知りました。

子どもの将来を考えて兄弟一緒にした方がいいという話し合いの上でこの結論に至り、母はやむなく自力での私の養育を諦めたようです。しかし、無念にも母が親権を渡したにもかかわらず、肝心の父はその当時も家を空けることが多く、再婚予定の愛人と遠方の市街地に事業を兼ねて住んでおり、子育ては祖父母に任せて、自分の世界で自由に生きていました。

母方の中村家は、昭和二十年代当時は炭坑の景気で沸いた飯塚町で質屋を営んでいました。番頭さんも十人くらい抱えて金融業も兼ねて当時としては大変栄えていました。

母親は五人兄弟(女四人、男一人)の長女で厳格に育てられたようで、しっかりした意志を持ち、毅然とした態度でプライドも高かったと聞いたことがあります。家が裕福だったので、兄弟姉妹そろって高等教育も受けていました。

昭和三十年頃に発売されたばかりで市内にはほとんどなかったテレビがありました。祖父は、お金に困った人に質入れ品を担保にお金を貸していたのですが、人の面倒見がよく、素晴らしい人格者だったそうです。