父方の稲田家は経済力で劣り、母方の豊かさに圧倒されていたようです。まだ私は幼児でしたが、母方の祖父には人情の機微のようなものを、何となく感じていました。もし、福岡県の都会で裕福な家庭の子どもとして育てられていたら、その後の私の人生は変わっただろうと思います。人の運命は本当にわからないものです。
母が天草へ私を連れてきた時に、初めて父の存在を知るとともに、複雑な気持ちで後妻となる予定の女性とも対面しました。子どもながらに美しい人だと感じたのですが、女優のように色白で綺麗な顔立ちの人でした。父がその女性に惹かれたのも理解できますし、実母だったら良かったと思えるような優しい人でした。
天草に住んで町の保育園に通うようになりましたが、片道四キロの道のりを毎日歩いて通っていましたので、先生方も可愛がってくれて、そのうち母親のこともすっかり忘れて通学を楽しむようになったようです。年長の担任は鶴戸先生という目のぱっちりした美人の先生で、一期生で可愛がられたのか、今でも園長先生と鶴戸先生の顔は鮮明に覚えています。
五歳の私には両親の離婚の経緯など理解できるはずもなく、子どもなりに両親が自分のことをどう考えているのか知りたかったのですが、いつのまにかその悩みも忘れてしまいました。
ただ、その日まで連れ添ってくれていた母が私を父の家に預けてから急によそよそしい態度に変わったのをかすかに覚えています。
父と再婚予定の女性に気を遣ったのでしょうか、翌日目を覚ましたら母の姿はありませんでした。急な出来事に驚きとともに寂しくて泣き止まなかったことを鮮明に覚えています。母がなぜ私を置き去りにしたのか理解できず、泣きながら周囲の家族たちに訴えかけたようです。私は幼かったし、家族も私に詳しい事情を説明するのが辛かったのでしょう。
早朝に家を出た母も後ろ髪を引かれる思いだったと思います。兄弟が一緒に育ったほうがいいという気持ちはあっても、精神的にも経済的にも二人を養う自信がなく、仕方なくこっそり去ったのでしょう。母がどれほど悲しく悔しかったか……成長してから母の思いがわかるようになりましたが、この時は自分を置き去りにした母を罵倒し、恨んでいたようです。
また、父の新しい女の人が優しく接してくれたので、すぐに親しみを感じるようになりました。離れて住むことになった母の心境はどれほど悔しくて寂しかったろうかと、私も成長してから母の思いを想像することができるようになりました。
一方の父ですが、一人っ子で大事に育てられたせいか、好奇心旺盛で自由奔放な性格が厳格な母とは合わなかったのだと思います。
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