【前回記事を読む】食事が取れず動けなくなった60代後半男性。検査しても異常なしだったのに、しばらくして呼吸困難に。この病気は一体…

第一章 佐賀県一の病院を目指して

第二節 筋萎縮性側索硬化症との出会い

一九七〇年頃の医学部数は現在の半数以下で定員も六十~九十名だった。進学過程の授業は旧兵舎で受けた(われわれが最後で時代の過渡期だった)。理数系は高校の延長で勉強の必要はなかった。

英語、ドイツ語の授業は個性的な教授の素晴らしい朗読に感動した。ラテン語は最後まで珍紛漢紛(ちんぷんかんぷん)だったが単位はいただいた。

教授は旧制高等学校から医学部へ進まれ人情味あふれる先生方が多く、進級試験はいくつかの科を除いてさして厳しくなくゆったりした時間の中にいた。

典型的なノンポリ学生で、留年しないように出席日数をやりくりし、クラブ活動、小説、オールナイト中心の映画鑑賞、麻雀、金欠の時は「つけ」で飲ましてくれる店の世話になった。

学生に優しい社会を学友達と謳歌していた。安保闘争、全共闘の時代で、東大安田講堂事件はTVで見た。発端が医学部のインターン問題であることを聞いても興味がなかった。最終学年は卒試、国試のために懸命に勉強した。

そのような学生生活を送ったため、神経内科の授業はあまり記憶に残ってなく、「なるほどALSの可能性ありだ」と知識の貧弱さを反省した。暫くするとわれわれの病院に戻すので「人工呼吸器の準備をよろしく」と言われ、人工呼吸器を購入した。

帰院された時には「閉じ込め症候群」状態で一年も経たず亡くなられた。その後、人工呼吸器は数名の呼吸不全の患者さんに使用したが使用頻度が少なく廃棄した。二十年後に幾人ものALS治療に関わり、人工呼吸器を中心とした病院になるとは夢にも思わなかった。

一九九五年頃から、妻とともに、耐震構造と広い病室が必要と考え新築移転を考えていた。近隣の方々のご厚意で、病院から800m南の農地に五千坪の土地を入手できたので、打診されていた老健を併設した移転を計画した。

一九九九年秋に、われわれの理想とした病院百十五床(二階五十五床、三階六十床)に、老健七十床(一階三十床、二階四十床)の施設が完成した。