翌日は大阪梅田駅で山田と再会した。東京の本社での同僚だった。その後職場をともにすることはなかったが、何故か気が合って交流は続いていた。
山田は茅根を大阪城に案内したいと言ってくれたので、そうしてもらった。城郭の規模は名古屋城に類似していたが、見渡す市街には高層ビルが見えた。
昼食後、タクシー代は払うからと茅根から申し出て、本能寺の変後、明智光秀と羽柴秀吉が激戦を交えた山崎合戦古戦場跡を案内してもらった。天王山の坂道を登ると、宝積寺(ほうしゃくじ)から桂川・宇治川・木津川の合流地点が一望できた。狭隘(きょうあい)な地域での合戦の模様が偲ばれた。
夕刻に大阪の街中に戻り、御堂筋にあるレストランで杯を交わした。
茅根が退職して以来の再会だった。話題が盛りだくさんで、家族のこと、同期の仲間のこと、死去した先輩や同僚のこと、会社の現況など会話が弾んだ。互いに治療している持病があったが、それも年相応なんじゃないかと慰め合った。
世の中の移り変わりが激しくなじめないことが多くなった。きっと自分の考え方がもう古いんだろうと感じると、山田は何度か口にした。茅根も同感であった。
「目まぐるしく移り替わる時代にあるからこそ、確実に存在した歴史に心惹かれるのかもしれない」茅根は思った。
飲食を始めてから三時間はあっという間に過ぎた。その後は茅根が宿泊するホテルの一階にあるバーで軽く飲んだ。山田はそこで十七年間寝食をともにした愛犬の思い出話をした。
「子供のいない自分には息子のようであった。ワンちゃんって寂しがり屋で家族が傍にいてくれることが何より一番うれしくてたまらないんだよね」
茅根は子供の頃、同じ体験をしていたので、相槌を打ちながら愛犬の話題に花が咲いた。
茅根にとっては、会社を互いに卒業し気兼ねのいらない友人とのひとときは心が休まり、自由の身のありがたさを感じる時間だった。
山田は次は東京での再会を誓って帰っていった。
【イチオシ記事】その夜、彼女の中に入ったあとに僕は名前を呼んだ。小さな声で「嬉しい」と少し涙ぐんでいるようにも見えた...
【注目記事】右足を切断するしか、命をつなぐ方法はない。「代われるものなら母さんの足をあげたい」息子は、右足の切断を自ら決意した。