【前回の記事を読む】のぞみのドア越しに見つめ合った視線が胸を揺さぶり京都での別れを鮮烈に刻んだ

第一章 再会

帰京する翌日の午前中、茅根は途中下車して彦根に降り立った。表門から天秤櫓(てんびんやぐら)、彦根城、玄宮園(げんきゅうえん)へ歩を進め、最後に井伊直弼の埋木舎(うもれぎのや)に立ち寄った。

直弼は十七歳から三十二歳まで十五年間、この簡素な武家屋敷で部屋住みとして生活をしながらも、茶道・歌道・禅・国学・兵学・武術など文武両道の修行に励んだ。藩主直亮(なおあき)が逝去すると十六代藩主に就任した。ペリーの来航など難題に直面し、その後大老に就任して開国へ舵を切ったことでも知られている。

将軍継嗣(けいし)問題で混乱を招き、安政の大獄で批判を浴び、桜田門外で水戸浪士らに暗殺され波乱の生涯を閉じた。その後、我が国は怒涛の勢いで倒幕に走り明治の世が開けることになる。茅根は激動の幕末、会津藩や地元出身の新選組、近藤勇・土方歳三など幕府側として同時代を生きた直弼に共感するところもあった。

一人旅を終えて帰宅してから一カ月経った頃であろうか。白川から便りがあった。その内容は京都で茅根と再会できたことをことのほか喜んでいるものだった。

本当は一晩ご一緒したかったと述べた後、そうできなかった理由として翌日、通院して定期検査を受けた旨が記されていた。その後に記された文面に茅根は衝撃を受けた。

六年前、乳がんがわかったと告白していた。入院・手術後、抗がん剤治療を半年続け、その後放射線治療を二カ月、一年にわたる闘病生活の苦しさは思っていた以上にすさまじいもので、髪も抜け、高熱や全身の痛み、副作用に耐えたとも記されていた。そして現在も経過観察のために定期的に通院しているということだった。

京都での逢瀬で茅根が妻の病のことを話した時、自分の身体のことも伝えようとしたが言い出せなかったことを詫びていた。

続けて、「これからは身体に気を付けながら、会いたいと思う人に会って、楽しいこともしたいと考えています」とあり、「自分のことばかり書いてしまいましたが、茅根さんも、奥様も、お身体には十分気を付けてお過ごしくださいね」と結んであった。

茅根は茫然とした。冷静さを取り戻した数日後、返事を書いた。文面にこれほど気を遣った覚えは過去になかった。