【前回の記事を読む】妻を亡くした私は七十歳が目前となった昨冬、四十年以上勤めた外科医の仕事を捨て、日本海側の地方都市に移住した

第一章 移住

一人で住むには少し広過ぎるくらいだったが、小さな庭には桃や枝垂れ桜も植わっていて、春を迎えるのが楽しみに感じられた。庭付きの一軒家に住むのは、子供の頃、マンションに移って以来のことだったのだ。

一月、二月と気候は比較的穏やかだったが、二月下旬から三月初めまでは寒の戻りがあり、晴れの日が多い土地で生まれ育った私には、さすがにこたえる日々となった。

しかし三月も半ばを過ぎ、あと数週間もすれば桜の開花も期待できるという頃になると、すっかり春めいて、いつの間にか庭に桃花が咲き、ホトトギスも鳴くようになっていた。

私が住み始めて数日のうちに、自治会の班長さんが我が家を訪れてくれた。そして、何か困ったことがあれば、すぐに飛んで来ますよと言って帰っていかれた。それは都会のマンション暮らしでは考えられないことだった。

ご近所の方々も、親切で気さくな方たちばかりであった。ゴミ出しの注意点や地域の年間行事のことだけでなく、近所のスーパーやコンビニの場所から、県内あちこちの観光地や特産物についても、いろいろ親身に教えてくれた。

しかし、移動の足もない老人が一人でうろうろできるわけもなく、それまでに決めてきた通り、私はひたすらのんびりと、これまでにため込んだ本を読む生活を送ることになるのだろうと思っていた。

私は子供の頃から、本を読むことが好きだった。本を読みながら、主人公とともに世界中を旅行し、いろいろな人やその思い、考え方にも触れることができた。ときには寝食を忘れ読みふけったこともあった。しかし私が大人になって選んだ医師の仕事は、私を読書の楽しみから遠ざけていった。

私は移住を決めて以来、何度もお気に入りの本を手に取っては、誰にも邪魔されずにそれを読みふける自分を想像したものだった。

しかし、このようなささやかな計画が崩れ去る日々が、移住から半年も経たぬうちにやってくるとは予想もしなかった。それはむしろ嬉しい誤算や良い意味で、とも言えるのだが、ある一人の男性との出会いが、私の第二の人生を大きく変えることになった。