聞いているうちに、それが今描いているボーダーコリーの言葉であることに気がついた。気の毒に思い、それが女性へのメッセージだろうと思って一言一句を記憶した。ふと気がつくと、時間の感覚がなくなっている。ボクはゾーンに入っていた。

ボーダーコリーの肖像は何度か描き直した末に、結局、諦めて適当なところで妥協した。仕上がった肖像画を女性に渡すときに犬の死因を聞いた。左肩の悪性腫瘍ということだった。その部位がどうしても描けなかった理由がわかり、あのときの言葉がやはり死んだ犬の訴えであることを確信した。

それが犬の望みだと思い、あのときに聞こえた言葉を逐一女性に伝えた。思い出せる言葉の全てをそのまま丁寧に伝えた。初めは半信半疑で聞いていた女性の表情に哀しみの色が浮かぶのがわかった。

やがて、女性はその言葉に涙を流し、取り出したハンカチでクシャクシャになった顔と涙を拭った。ボクは犬の肖像画を抱えた女性が帰ってからふっと考えた。今更、死んだ犬の真摯な想いを伝えたところであの女性にとって何か意味があったのだろうかと思ったのだ。

実際、彼女が一人でいることやこれからも一人で生きていくであろうことは誰にも何ともしようのないことで、彼女自身にも変えようのないことなのだ。そのことで心を痛める犬の想いを伝えたことが彼女の癒やしになったのだろうかと考えた。そう思うと、何か、無力感があった。

亡くなった犬の肖像はもう一枚描いた。マサヲという名の雄の秋田犬を飼っていた友人がいる。とても大切に育て、子供のように可愛がっていたが七歳半で死んだ。死因は癌だった。飼い主は八方手を尽くしたが、遺伝性の癌で手の施しようがなかった。

親しい友人の犬だったから時間をかけて丁寧に描いた。背景を濃く、犬を白抜きで描き、毛並みは薄い鉛筆とペン消しで表現し、練り消しで陰影をつけた。試行錯誤しながらでも順調に描けた。今回は何かが見えたり聞こえたりということはない。取りあえず、描くことに没頭出来た。

 

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