幸三は、決まりきったいつもの朝の儀式が終わり、後ろを振り返った。
その直後、美弥の悲鳴にも似た金切り声が畑に響いた。「もう、聡ちゃんはさっき家の前を通り過ぎて学校に行ったよ。早く行かないと遅刻して先生に叱られるよ。早く、早く行きられー」
これはいつも、繰り返される母の決まりきった台詞であった。
コトコトッ、コトコトッ、コロッコロッと持ち手が短くなった鉛筆と、使い古して小さな塊になった消しゴムがランドセルの中で、踊るように音を立てる。その音を聞きながら、杏畑から滑り落ちそうな勢いで、丘を駆け下り、やや泥濘(ぬかる)んだ、真っすぐな農道を走り抜けた。自宅の前を通りすぎる際、幸三は叫んだ。
「母ちゃん 行ってくるねー、いっぱい勉強してくるけん!」そう言い捨てると、美弥の前を、猪のような勢いで駆け抜けていった。
幸三の通う小学校は家から500〜600メート先の平坦な山の麓にあり、裏山の稜線から続くブナ林で囲まれた開けた平地にぽつりと建てられていた。
小学校は、こぢんまりとした平家建ての木造校舎で、教室は廊下に沿って横1列に並んでいた。奥には、狭い校長室と用務員室、オルガンが置かれ音楽室を兼ねた広い作業台がある理科室、冬には暖を取るためストーブが部屋の真ん中に置かれたストーブ教室があり、低学年用と高学年用2つの教室があった。
児童は1年生1人、2年生が2人、3年生が1人、5年生が1人と4年生が1人。6年生は3人で、隆と幸三、聡子(さとこ)の、合わせて9人がここで勉強していた。