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CADの画面に向かったまま一向に纏(まと)まらないイメージに私は手を焼いていた。
今回のクライアントは四十代のご夫婦で、ご両親から相続した古い住宅のリノベーションをご希望だ。
場所は都心から至近の住宅地として人気が高い深大寺の周囲に広がる住宅地だった。洒落た住宅が軒を連ね、クヌギや白樫(しらかし)、背の高い欅(けやき)などの武蔵野の雑木林が心地よい木漏れ日を揺らす、その住宅街の中でひと際緑濃く樹々が茂る広い敷地が寺田家だった。
代々蕎麦農家だったという寺田家の歴史は長く、その敷地に建つ古民家は何代も受け継がれた歴史に彩られ凛として美しい。寺田さんがその雰囲気を壊したくないという強い思いはひと目見ただけで充分納得できた。四十年ほど前にご両親が一部改築されたということだが、これから快適な住居として住み継ぐにはどうしても大幅リノベーションが必要だった。
ご両親が相次いで他界された数年後、米国勤務を終えた寺田さんはご家族を伴って帰国されていたが、その家に住もうと強く思われるようになったのはつい最近だという。寺田さんの懸念は、アメリカ人の奥様とシアトル育ちの息子さんがその環境に馴染めるかどうかだった。
「深大寺の家は僕にとって思い出の詰まった故郷です。あの家がずっと僕を待っているような気がしていました。しかし木々に囲まれた武蔵野の穏やかな自然は、海が美しく眩しい空の広がるシアトルとは違いすぎますからね。全米で一、二を争う有数の自然景観に馴染んだ二人が、武蔵野の自然を愛せるだろうか? それが気がかりなんです」
「ファミリーの新しい故郷を創り出す、すごく楽しいことじゃありませんか? そうしたファミリーを沢山存じ上げていますよ。それで――具体的なご要望があれば、是非お聞かせください」
私がペンを手にプランニングノートを開くと、寺田さんは組んだ両手を顎の下に当て暫く考え込んでいた。やがて視線を上げて、隣に座った奥様ににっこり笑いかけてから言った。
「その家で大切な家族の笑顔に囲まれて暮らしたい――それだけが僕の要望です。澤さん、私たちはあなたの作品を幾つも拝見しました。住み手自身さえ気づかなかった思いを引き出して幸せに満ちているような住まいだと思いました。そんな住まいをあなたならきっと作ってくださるにちがいない。だからすべてお任せしたいと、アリスは言います」
マイホームを建てる、それは誰にとっても大きな夢の実現だ。だから詳細にわたってこだわりの要望が多い。「家族の笑顔に囲まれて暮らす」というたった一つの寺田さんの課題は百の具体的な要望よりずっと重く難しいミッションだった。
寺田さんが私を高評価してくださったのはとても嬉しかったが、その頃の私には今までにない躊躇(ためら)いがあった。
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