それなら、と筆者はまた問いたい。

「どんな石なら気づくだろう?」

「その石に気づくには何が必要だろう?」

「どんな石なら魅力的で、必要とする石とはどんな石だろう?」

そのように考えてもわからないことがあるかもしれない。あるいはどうでもいいかもしれないし、面倒くさいと感じて投げ出すかもしれない。

その選択や判断、認識の違いがその人らしさだと筆者は思うし、石を拾うとは、わからないことを問う行動でもあると思う。

わからないことを拾い上げ、答えを出そうとする人もいる。

このように考えるのも、筆者自身に、わからないことがあったからだ。ずっと医師に問いたい疑問があった。自分は統合失調症だったのか? そしていまはどうなのか?

前作は、医師の診断を疑い、自分の疑いを疑い、さらにそれを疑うという、そうしたあやふやなこころ模様から出てきた作品だった。

どうしてあやふやなのだろうか? なぜ医師に直接説明を求めてはっきりさせないのだろうか? 出版までする必要があったのだろうか?

そう問う人もいるかもしれない。筆者はそういう問いに答えるために、この原稿を書いている。なぜなら、その答えは、簡単には説明できない、書きながら気づいた語りづらい事情や忘れていた記憶が関係していたし、自分でじっくり考える必要があったからである。

今回は、筆者が出会った聞き書きの手法を用いて、自分で自分に問い、自分の軌跡をもう一度書き起こして、ひとり語りのリカバリー体験談として仕上げようという試みである。