こうした浪人生活の間に、恭平の志望大学は雅子の住む京都の同立大から、東京の叡智(えいち)大に変わっていた。それはプロテスタントからイエズス会への転向と言う宗派上の問題ではなく、もちろん学力の向上に伴う変更でもなかった。
そもそも恭平は高校時代には、叡智大の名前すら知らなかった。
叡智大の存在を教えてくれたのは先生や先輩、受験雑誌ではなく、お好み焼き屋で何気なく手にしたプレイボーイ誌の記事だった。
他の客の手前、ヌード・グラビアのページをさり気なく飛ばし読みして開いた雑誌に、《女子大生が選ぶ人気大学ベスト10》の特集記事があった。
一位に選ばれたのは東大でも陸王大でも稲穂大でもなく、叡智大で、中でもサッカー部の人気がダントツに高いと言う。さらに嬉しいことに、語学が売り物とされる叡智大にあって意外にも、何故だか語学堪能に非ざる者が人気を博すそうだ。小躍りした恭平は、右手のヘラでお好み焼きを頬張りながら、左手に持った雑誌を落としてしまった。
関東サッカー・リーグ二部の叡智大ならば、一年からレギュラーも夢ではない。さらに幸か不幸か、語学力にはからっきし自信が無い。
つまり、叡智大入学サッカー部入部の暁には、恭平は日本一のモテモテ学生として四年間を送ることができる。能天気なロジックを構築した恭平は、同立大と決別した。
丁度その頃、恭平は大宅歩の遺稿を集めた「詩と反逆と死」を読んでいた。短い文章のどれもが輝いており、恭平に溜め息を吐かせ続けていた。大宅歩が十七歳の正月を迎えての一節に、「今年は、トルストイを原書で読みたい」と認められていた。
叡智大の入試は、二次に面接試験があった。恭平は外国語学部ロシア語学科に願書を出した。二次面接の試験で、志望動機を聴かれたら、「原書でトルストイを読みたい」と応えてみたい誘惑に駆られたのだ。
だが、一次試験合格者の中に恭平の名前は無く、志望動機を応える夢は叶わなかった。実際のところトルストイの作品なんて、児童向けに翻訳された「復活」を読んだくらいのもので、それすら満足にストーリーを覚えてはいない。