232年の崇神渡海のころ、半島の軍事情勢はといえば、魏による公孫氏討伐を中心に動いていた。

はじめは後漢の官吏であった公孫氏は、189年にはその軍功が認められて、遼東地方 (中国東北地方の南部)の太守となった。その後約50年にわたって、遼東から北朝鮮にか けて勢力を振るった。

その間、公孫氏は楽浪郡を勢力下に置き、またその南に帯方郡を設置した。同氏に対し、魏は武官の称号を贈り、功績を認めて政治組織内の将軍として取り込もうとしたが、それを不満とした公孫淵は、魏から独立して燕王を名乗った。

魏は武将司馬懿に4万の大軍をつけて、この討伐に差し向けた。敗走した公孫淵は斬られ、公孫氏は滅びたのである。一方の司馬懿からは、のちの西晋が成立していくのである。

崇神が渡海したころ、魏は建国後の勢いを保って、軍事的行動も盛んであった。半島や倭国に対しても、それなりの軍事力行使を厭わなかった時期である。

しかし公孫氏が設置した帯方郡への影響力は、同氏が実質的に郡を支配していたので、やはり間接的なものであった。公孫氏を自国の代理人とすることが、三国(魏・呉・蜀)鼎立の時代を戦っていた魏には、最善の処遇であったと思われる。

このように邪馬台国の時代の朝鮮半島は、実質的な支配者は魏ではなく、公孫氏であったことを理解する必要がある。卑弥呼が第一回目の遣魏使を派遣するのは、公孫氏が滅びた翌年であることにも、注意しなくてはならない。

半島の実質支配者が公孫氏から、魏に代わったことへの儀礼的訪問も兼ねて、国譲り戦での崇神勝利の報告をしたのである。思うに政治的には理にかなった措置であり、ここしかないというタイミングの遣魏使であった。

魏と卑弥呼の朝貢関係の前には、公孫氏と卑弥呼との交渉があったと推測される。そんな情報が、『晋書』に残っている。「四夷伝 倭人」に載る卑弥呼である。