第二章 渡来人に支配された古代ヤマト

鉄と東アジア

名曰卑弥呼。宣帝之平公孫氏也、其女王遣使、至帯方朝見。

大意は、次のようになる。「名付けて卑弥呼という。宣帝が平らげた公孫氏の者か(よく分からないが)、その女王が遣いを出して、帯方郡に至り、朝見した」、というものである。239年に卑弥呼が出した、第一回遣魏使のことである。宣帝とは公孫氏を滅ぼした司馬懿のことで、孫の武帝から「宣帝」を追尊されていたのである。

その卑弥呼は、どこのデータにあったのか、公孫氏の一族ではないかという情報があったのである。すなわち既に、卑弥呼と公孫氏との間には、政治的な交渉事項が存在していたことの、間接的な証である、とも読み取れる一文なのである。

遼東方面から東に勢力拡大を続けてきた同氏にとっては、さらに日本海を渡海して、倭国と言う新天地を目指すのは当然ともいえる。中国の覇権国家が一たび朝鮮半島に食指を延ばせば、小国家など一溜まりもないのである。そんなリスク管理上からも、公孫氏としては、邪馬台国の卑弥呼は、親交を結ぶべき相手であったと考えられる。

「也」には二つの意味があって、一つはこの訳の通り、疑問・反語・詠嘆・強意の助詞である。従って「公孫氏の者か」という疑問形になるが、もう一つの「なり=断定の助詞」と解釈すれば、「公孫氏の者である」としなくてはならない。

卑弥呼が「公孫氏の者」であったなら、敵として滅ぼした公孫氏の一族の者を、魏は丁重に扱うことになって、矛盾が生じてくる。疑問形に訳すのが順当である。