リドカインとは、いま発生しているような、そんな危険な脈の乱れを抑える超緊急用の抗不整脈薬の一つで、救急カートの引出しの最上段に収められている。それはわかっているけど……、いよいよバタバタだぁ、あれもこれもいっぺんにはできないっ。
「自発呼吸微弱、血中の酸素飽和度(サチュレーション)八八……八七……八六。これじゃあダメだわ。アンビューに切り替えて!」
普通なら一〇〇%に近い数値だけど、どんどん下がっている。それにともない次から次へと指示が変わる。アンビューとはバッグバルブマスクによる換気への切り替えだ。自力で呼吸できなくなってきているのだから当然だ。要は、患者の口元にバッグつきのマスクをあてて、それを繰り返し揉むことによって強制的に酸素を送り込む。
やばい、やばい、これはマジでやばい。急変っていうのは……、本当に一刻を争う。
小元先生が息を切らしながらやってきた。
「遅いよ!」、文句の一つも言いたかった。
が……、「一一時五八分、いまから五分ほど前に心電図モニターのアラーム音が鳴りまして、見るとVPCが頻発していました。これがその波形です。酸素投与をはじめたところでVFになりました。それからこうして胸骨圧迫を続けています。意識レベルは三〇〇と昏睡状態で、呼吸もほとんどしていません」
遅れてきた小元先生を責めるでもなく、千登勢先輩はすばやく状況を伝えた。もちろん先生だって別の急患の処置にあたっていたわけだから、文句を言われる筋(すじ)合いはない。もっとも、いまのこの現場で余計なことを言い争っている場合ではない。
「血圧は?」
「下がっています。触診でしか測れませんので八〇以下だと思います」
「まずは挿管だな」
気管内挿管だ。気道、すなわち空気の通り道を確保するために、口から気管内に向けてチューブを挿入する。
「現在、サチュレーションは九三%です」
私はバッグを押しながら酸素状態を伝えた。いまなら間に合う。千登勢先輩は〝心マ〟をしている。挿管のアシストは自分がするしかない。