突如、千春は何も言わず、私の太ももを強く掴んだ。痛みを感じる前に、千春の心の内を察した。これが合図。何に興奮したのかは全く分からないが、いつもの通りに身を委ねることにした。

キスなんてしない。キスをすると脳が刺激されて痛みが和らぐ、なんて聞いたことがあるけど、私の中では眉唾物同然だ。痛いと感じることはしない所は、彼の悪人になりきれない優しさが滲み出ていると思う。

私は自分でブラウスのリボンを解いた。目を逸らしたくなる程貧相な体。自分の体を目にすると偶に思い出す、千春の父親のこと。ゆっくり撫で上げられる気持ち悪い手つき。その感触が忘れられない。熱さは全く喉元を過ぎず、今も閊えている。私の体は、急に言うことを聞かなくなった。

「何」

「ごめん、思い出しちゃって」

千春は頭を掻きながら深く溜息を吐いた。

「あっそ」

「すぐ忘れるから待って」

私は必死に頭を空っぽにしようとした。でも人間とは不自由なもので、忘れようとすればする程、濃い霧のように纏わりつく。冷や汗が止まらず、瞬きも忘れてしまった。もたもたと服をたくし上げる。

「あー、俺も思い出してきた。もう良いわ」

千春はスウェットを拾って、袖を通した。そして雑にロンTを掴み、私に投げた。

「飯食いに行く。来んの?」

「行く」

私は慌てて服を纏い、髪を整えた。アパートの鍵を握り締めて転びそうになりながら駆け出す。

色違いのサンダルを履く私たちは、他人からはどう見えているのだろうか。

次回更新は8月17日(日)、20時の予定です。

 

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