「毎回ただ親花祭と文字で書いた看板だけだから、どうにも寂しい気がしててね。今年は特別なことがしたいと思ってる。矢崎くんはとても絵が上手で、小学生の時に表彰もされていたと聞いたものだから、絵を描いてもらってそれを一緒にライトアップしたら面白いかなって。
ちなみに、美術部の子たちにもお願いしてる。花をバックにして、光る画廊みたいに横一列にみんなの作品を並べるつもりなんだ。どうだろう? 矢崎くん。数は多い方がいいから、君にも一枚描いてもらいたいんだ。
最近は描いてないとも聞いているから、もし理由があって乗り気にならなかったら、もちろん無理強いするつもりは一切ないからね」
桜井先生の頼み事は、僕にとってまさに青天の霹靂だった。なぜ僕が絵の描けることを知っているのか。先日声をかけられた、朝桐という人が教えたのだろうか。しかし今はそんなことはどうでもいい。僕はまた体中に悪寒の巡る感覚を覚えた。
今まで幾度となく、絵の誘いや頼まれ事を受けてきた。しかし祖母以外で、年長者から正面切って頼まれたのは初めてだった。軽くあしらう術は持っていない。上手に断る引き出しもない。
たとえ描くことを決心したとしても、以前のように楽しく、そしてうまく描ける自信はない。描いてあげたいと思える人もいない。それに、認めたくない恐怖がそこにあった。
病床の母を鮮明に思い出してしまうかもしれない。それをきっかけに、決定的に絵を描けなくなるかもしれない。
こういうどうしようもない場面にぶつかって、そして理解する。僕は怖くて自分から逃げている。母の死を言い訳にして、自分の人生から逃げている。弱い自分を肯定しようと必死になっている。それが負い目となって、僕の心に牙を立てる。
自己嫌悪と頼まれ事への逡巡で、頭がおかしくなりそうだ。視線が徐々に下がる。路上に横たわる、汚れた花弁が目に映る。 不快な汗が額から頬を伝う。それと並行して、体温がするすると下がっていくのを感じた。
しかし、あかりがこの出口の存在しないトンネルの壁を壊した。
「いいじゃん、颯斗くん! やろうよ! めっちゃ楽しそう」
初めて、あかりに対して熾烈な怒りを覚えた。君に僕の何がわかるのか。何も知らないくせに、土足で他人の心へ踏み込むな。
怒りの表情をぶつけようと顔を上げた瞬間、僕は逆に圧倒された。「大丈夫だから」そんな声が聞こえてきそうな、凛とした目色であかりは僕をまっすぐ見つめている。その眼差しは、優しく撫でるように僕の熱を帯びた心をゆっくり冷やしていった。
次回更新は8月6日(水)、21時の予定です。