目標もなく、間近に迫った定年までの日々を、何となくただ惰性で生きているだけのような気分になっていた木田に、あるNGOから短期協力者の募集があると教えてくれたのは、国立大学を定年退職後、今は私立大学の教授になっている学生時代の友人だった。

それは何気ない酒の席での話題だった。学生時代に読んだレヴィ=ストロース[1]に被れて、未開の民族文化に興味を抱き、青臭い文明論を吐いていた時期もあったことを、もしかすると友人は覚えていてくれたのかも知れない。

とはいえ、木田がこの事業に関わったのはそんな崇高な学問的な興味からではない。このままではいけないという漠然とした焦燥感を抱きつつも、何も自分からは変えられずにいる閉塞感から逃れ出る好機と捉(とら)えたのは確かだが、

それより、一時的な酒の酔いと、相手が学友だったという気兼ねのなさが、いつも慎重な木田の箍(たが)を少しばかり緩めてしまったからに違いない。

彼の友人が理事に名を連ねているNGOということだったので、それなら一度詳細を聞いてみてくれと、うっかり口走ったことから、喜んで協力してくれる物好きな医者がいるという話になってしまった。

医者なら現地で働く日本人も大歓迎してくれるだろうとして話がどんどん進んでしまい、途中で木田が躊躇(ためら)いを感じ出したときには、もう抜き差しならぬところまで話が進展していたのだ。

「水は飲んでも大丈夫ですか?」と、吉田の陽に焼けた健康そうな顔を眺めながらおそるおそる尋ねる木田に、

「いやあ、ここは大丈夫ですよ。この港周辺は観光客向けの店ばかりですからね。清潔ですよ。料金も高くて、地元の人間は利用できません。でも、この島は一帯に水は質がいいようで、マニラ辺りとは大違いです。

あ、それから、宿舎の水も大丈夫ですよ。水道水を更に二回濾過(ろか)しているんです。まあ、それでも下痢になる奴はいますがね、はっはっは」と、吉田は屈託がない。