透析という治療と誕生日

次の日母はいつも通り、面会時間開始と同時に病室に来た。あとから、父も来るらしい。父と来る時は、父の運転する車で一緒に来る。僕も兄も昨日の検査結果の話を今すぐにでも聞きたかったが、

「お父さんが来てから話そうか、ねっ」

と言って、母は床頭台(しょうとうだい)に置いていた漫画本やコップ、お箸を整理し始めた。父が病室に入ってきて、部屋のみんなに挨拶していた。挨拶を終えると、父は僕のベッドに腰かけて、僕の横に座った。母は、僕と兄の間に椅子を置くと、ゆっくり話し始めた。僕は、母のことばを一言一句聞き逃さないように聞いていた。

母の話によると、僕たちの病気は父も腎臓が強くないため遺伝の可能性も否定できないこと、今の医療では治らないこと、そして退院しても腎臓をこれ以上悪くしないように、食事や運動制限をしないといけないことやたくさんの薬を飲まないといけないこと、定期的な検査をこの大学病院で受ける必要があることを順序立てて話してくれた。

僕は、話の途中いろいろ聞きたかったけれど、聞くのが怖かった。母が説明した最後に、

「透析しないように頑張ろうね、お母さんも頑張るからね」

と、泣きながら言っていたのを今でも鮮明に覚えている。しかし、母が言った「透析」ということばが10歳の僕には全くわからなかった。でも、母の涙を見た時、透析そのものはよくわからなかったが、透析は絶対にしてはいけないものであり、僕も頑張らないといけないんだと強く思った。話の間、僕のそばにいた父はずっと母の話を聞きながら、僕の頭を撫でたり、背中に手を置いたりしてくれていた。

退院が2週間後に決まった。1週間の入院予定だったのが、気がつけば3ヶ月経っていた。3ヶ月間、母はほぼ毎日和歌山から僕たちが入院している大阪の病院まで、電車とバスを乗り継いで、片道2時間弱かけて会いに来てくれた。専業農家であったため、その間、父が母の分まで仕事をしなければならず、今になってその苦労がどれほどのものであったのか考えてしまう。

 

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