【前回の記事を読む】社会を分断したコロナウイルス その発生源はコウモリか、武漢の研究所か。何回もオーバーシュートしたことを考えると......

一、壁

自分の中にある壁

次は仕事上の問題である。私は自分で壁を作ることは、今まで経験がない。定年後の勤務先では、多くの人間関係があったが、私は相手の希望に逆らったことはなく、おのずから、壁はできなかった。相手も壁を作らなかった。

でもある施設で、高年齢にもなり、何ら、先方に迷惑など掛けていないのに、次第に仕事が少なくなり、最後は自然に行けなくなった。相手側が徐々に壁を立てていったのであろう。

デカルトの「我思う、ゆえに我在り」は名言である。私は「思う」の壁を感じた。思う側の自分は存在し、思わない側の自分は存在しない。思わないということは、自分の存在否定である。「思う」の壁がある。私は壁のこちら側にいたい。そのためには思うことであり、これは思索を意味する。厳しいデカルトの言葉と理解している。

もう一つは存在理由(レゾンデートル)であり、これは集団の中に自分がいるのはどのような理由があるのか、という意味と簡単に解釈している。フランスの哲学者の言葉だが、名前は分からない。

集団内に自分がいるのは集団が自分を必要としているからなのか、自分が集団に入りたかったのか、集団内での自分の役割は何なのか、それが集団にとって、また自分にとって良いことなのか、などを一度考えてみてください、というときに使われる。集団内には多くの壁がある。このことをわきまえた上で、ここにいるということの反省でもあろう。

壁をなくす生き方

色々な壁を概観しよう。生きている場は、大きくは地方自治団体で、社会全体でユニバーサルデザインが進みつつある。

自宅近所の踏切も「開かずの踏み切り的」だったが、電車の線路を持ち上げる作業が進行中である。何年か後には、高架化された線路を踏切なしに自由に通行できる。これは一例であるが、住民の人々のアメニティーを高める施策が進められている。