あんなに憎かった家を出て来たにもかかわらず、初めての一人暮らしというものの寂しさは想像以上に苛酷だった。呼べばすぐに来てくれる友達などいなかった私は、アパートに一人でいるのが寂しすぎて、昼も夜もその経営者の元で働いた。お陰で経済的に困ることはなかった。

アパートが見つかってから、高校を卒業することと、ピアノを続けることと、今後一切親を頼らないということを条件に、ピアノを搬送してもらった。

「音楽大学へは行けないが、ピアノで生活できるように頑張る」と、私は嘘でもそう言った。

その時母親からもらった手紙にはこう書いてあった。

「ピアノを送ります。今後一切、私達の邪魔をしないでください」

家を出たにもかかわらずピアノを続けようと思っていたのは、どこかで母親を信じていたからだろう。いつか私を受け入れてくれるのではないかということを。自分の中のけじめとして、ピアノはライセンスの資格だけを取得して辞めた。自由を手に入れた私は、自力で生きて行くことに必死だった。ピアノなんて、もうどうでも良くなってしまっていた。

弟はプロのサッカー選手にはなれなかったが、一流の私立大学に合格した。

そんな中。私は十八歳の時に交通事故に遭った。札幌から小樽に向かう高速道路。真夜中に流星が見たくて三人で車を走らせていると、私達の車はアイスバーンでスリップした車を避けようとして中央分離帯に激突した。助手席に座っていた私はひっくり返りバックミラーに頭から突っ込んだ。救急車で運ばれるが、その病院では治療を断られる。

「この怪我は当院では治せません」

次々と病院を当たるが、ことごとく断られる。

「絶対に鏡を見ないでください。札幌で一番の形成外科を紹介するのでそこの医師の指示に従ってください」