織豊期の戦乱の世が終り、人心が落ち着きをみせた貞享・元禄期になって、邊地順礼のすたれた道を歩いて開悟した真念の話を聴いた寂本は、徳川幕藩政権の社寺政策が確立されてゆくなかで、高野山の権威を保持し存続を期した参詣誘引策として邊地順礼道・四国徧礼道を遍路につくり変えた。
実地に徧礼道を歩いた真念の話を聴いた寂本は、空海の『御遺告(ごゆいごう)』や『続日本後紀(しょくにほんこうき)』などの記載から空海が優婆塞のころ畿内や四国の山河を修行跋渉したことや寺の縁起・逸話伝承などを下地にして、それらを基に四国徧礼(邊地順礼)を遍路につくり変えて、空海を「お大師様」に祭り上げ、高野山の寺格を上げるために利用した。
高野山学侶衆の寂本らは邊地順礼(道)にある熊野御師、行者山伏、都の優婆塞らの行跡を集約して弘法大師一人に付会し、それを弘法大師一尊化という理念として、邊地順礼の信仰を弘法大師信仰の遍路につくり変えた。
本来、四国徧礼道は熊野御師たちによる補陀落渡海の観音信仰の布教道で、また修験の行者らの「修験の海の道」だった。それゆえ、邊地・順礼と云われていたころの古い信仰の姿かたちは四国徧礼道に消し難く残っており、そこに自らの宗教的感情や欲求の淵源を辿ろうとすることは意味のあることだ。
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