虚構の一例─遍路

遍路とは、徳川幕藩政権が応仁以来の戦国色を洗い流して落ち着きをみせるころに虚構され、弘法大師によってはじめられた四国八十八ヶ所の札所寺をめぐる徧礼(道)として理解されるようになった。

この理解は、高野山の学僧である雲石堂寂本(うんじゃくどうじゃくほん)と宥弁坊真念(ゆうべんぼうしんねん)の著作・述作によって主導形成された。

真念は平安期に「邊地(へじ)」と云われ、鎌倉・室町期に「順礼(じゅんれい)」と呼ばれた四国徧礼道を行者(聖)として歩いたが、それによって「邊地順礼」の信仰を感得して、この邊地順礼道・四国徧礼道を仏道成就の道として確立しようとして『四国徧禮道指南(しこくへんれいみちしるべ)』(一六八七)というガイドブックを板行し、行者仲間や優婆塞から徧礼道にまつわる伝承話や霊験譚などを聴いて寂本に伝えた。

寂本は真念の熱意にほだされて、寺の縁起に弘法大師を組み込んで宗教的粉飾を加えた『四国徧禮霊場記』(一六八九)を著した。

このことは、澄禅の『四国辺路日記』(一六五三)によって、真念や寂本の時代以前には札所寺などは衰退して破れ寺同然なことからみて、これら寂本や真念の著作によって遍路が虚構され、その理解がつくられたことを時系的に証明している。

澄禅の云う「辺路」あるいは真念が歩いた四国徧禮道とは、かつて辺境の地に伝教した熊野御師、都の優婆塞(うばそく)、修験の行者らによって道場や禅定の地をつなぐ道として踏まれた道で、真念や寂本の時代以前にそうした道があったことは認められるけれど、それをはじめたのは弘法大師でも真済でもない。