【前回記事を読む】米文学ゼミでサリンジャーを選んだ私に先輩が「知ったかぶりの知識で書かないでほしい」と…私のミーハー的な態度は見抜かれていた
アメリカ文学
「物語の主人公に少年を設定するやり方は、『ハックルベリーフィンの冒険』以来の、アメリカ文学の、ひいてはアメリカ・ジャーナリズムの〝伝統〟だという人もいるが、こんなにナイーブな心の持ち主がもし女性だったら、圧倒的な社会の圧力に押し潰されて死んでしまうだろう」
「生命として生き続けようとするなら、安全な場所に避難するか、強い者に守ってもらうか、はたまた知恵と勇気を働かせるか、だ。いい悪いは別として、女性はいつも危険と隣り合わせだ。自分の身は自分で守っていかなくてはならない。その生存への意識は男性とは比べものにならない」
「女性は女性であることを常に意識させられる。そのように体が自分自身に促すのだ。その証拠に、自殺する人の数は男性の方が多い。女性は一人になっても男性より長生きできる」
「たとえ男性の庇護の下にあっても、女性の方が何百倍も現実と向き合って生きている。男性はロマンチストになれるが、女性はリアリストにしかなれない」
「夢見ることはあっても、目の前の利害関係はちゃんと見据えて、計算し、何をすべきか考えて、動く。無鉄砲で野放図な男のようには生きられない複雑な仕組みを内包する体とともに、女は女としての負荷を克服しつつ、強くたくましく生きていかざるを得ない」
「サリンジャーに共感するナイーブな男性たちに対して、女性の読者はどちらかというと、母性の立場からこの小説世界を見ることになる(幼い妹のフィービーがまさに母性の素のようなものを体現している!)」
「少年に共感している男性の読者は、主人公の内面に寄り添うことで、己れのアイデンティティとその成長を確認するが、女性の読者は、主人公の少年を包み込むことで、女性と男性の性別を超えて存在する人間の心の躍動を素直に感じ取るのだ」
「それは、胎児という異物を抱え込む女性の宿命づけられた立ち位置であり、同時に母になるための訓練でもある」
「もちろん『捕手』の延長線上には、父性があるのはわかるが、その父性はまだ新しい生命を守れるほど成熟していない。まだまだ頼りない存在なのである」
私はリカコさんよりずっと以前の、ある女子学生によって書かれたエッセイ風の卒論を拾い読みして、この人は社会人か、それとも、出産・子育て経験のある人じゃないかと想像した。
教授に聞いてみると、果たしてそうであった。子どもが大きくなったので、自分も大学で勉強をしてみたくなったという五十代の専業主婦であった。私はそのことに喜びを感じた。励まされる思いがした。