第一章 仙台藩の内情
一 飢饉
仙台藩は、たびたび飢饉に見舞われた。
特に、小氷期といわれた天明三年(一七八三)から同六年にかけての天明の飢饉は、浅間山の噴火による降灰が冷害凶作をもたらし、餓死者が三十万人に達することとなった。
浅間山は、天明三年四月九日に噴火。一か月半ばかり平穏であったが、五月二十六日に再噴火。三日間続き、六月十七日から断続的に、二十九日から連日、七月六日から爆発し、翌日火砕流が発生、北麓の鎌原村を吞み込んだ。
村では四百七十七人が死亡、高台の観音堂に逃れた九十三人が助かった。火砕流が吾妻川に流れ込み泥流となり、洪水をもたらし前橋周辺だけでも千五百人ほど死亡した。この浅間山の噴火による降灰が関東一円ばかりか、ヨーロッパの上空にも達した。
その五十年後の天保四年(一八三四)から同一〇年(一八三九)にかけて連年凶作・飢饉が続き、天明の飢饉より深刻といわれる飢饉に見舞われ、またしても多くの餓死者が生じた。その数は、明確ではないが十五万人ともいわれている。
東北地方、なかでも南部領、仙台領、相馬領を含む浜通りでは、三陸より吹き込む低温の東風や北東の風が「こち」或いは「やませ」と呼ばれており、梅雨の頃の「やませ」は、冷気を含み濃霧となり日照時間を減少させ、米その他の作物の生育を妨げ、収穫が減量したことから、餓死や疫病をもたらした。
仙台藩の米の収穫量は、実収百万石といわれていたが、冷害により、
天保四年 七十五万九千三百余の損亡。
同 五年 まあまあの作柄。
同 六年 七十三万三千五百二十二石余の損亡。
なお同年六月二十五日 地震、仙台城石垣崩れる。
同年閏七月七日 大風雨・洪水、同二十三日 再び大洪水。
と災害が続発した。
同 七年 九十一万五千七百八十四石の損亡。
同 八年 六十三万二千三百石の損亡。
同 九年 八十二万六千石の損亡。
と連年凶作により減収が続き、凶作が幕末まで慢性的に続いた。
そのため人々の生活が困窮した。
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