はじめに
慶応四年(一八六八)一月三日に勃発した鳥羽伏見の戦いから、明治二年(一八六九)五月十八日函館戦争の終結までの約一年半、五百二日間に及ぶ国内最大の争乱を戊辰戦争と呼んでいる。
戊辰とは、慶応四年が、干支の十干のなかの戊(つちのえ)と十二支の辰(たつ)との組み合わせの戊辰の年に当たることから名付けられた。このような例は、壬申の乱(六七二)にも見られる。
この戦争を「日本近代」が創出される一過程である、或いは幕藩制国家が天皇制国家へ転換する過程に発生した大内乱である(石井孝著『戊辰戦争論』)と位置付ける説。また明治維新のなかで「維新の変革はブルジョア革命」説、これに対し「封建的絶対主義を廃絶しなかったのでブルジョア革命ではない」との論争がある。
また絶対主義の国内統一戦争であり、これに敵対した勢力、なかでも東北諸藩は、新政府の徳川氏に対する態度、総督府の会津・庄内藩に対する「私怨」的行為について自藩も同じ運命になりかねない要素を見出し、当時の周辺の軍事情勢もあり列藩同盟に踏み切ったもので、そこには自藩の封建的土地領有の擁護の思想が働いていた。
換言すれば列藩同盟的権力と絶対主義勢力との闘争であった(原口清著『戊辰戦争』)との説などがある。しかし、敗者のなかには、総督府の私怨的行為を強く批判する一方で、アカデミズム論争とは無縁である、また勤王と佐幕の問題でもないとの主張がある。
歴史に「若し」はなく、ヴォルテールの「過去の歴史などというものはすべて一般に認められた作り話に他ならない」という言葉に納得できるものがある。
いずれにしても会津藩と仙台藩が主力の奥羽越列藩同盟軍が、白河攻防戦で西軍に敗れ、続いて仙台藩は、福島各地の戦い、そして相馬藩と仙台藩との藩境の駒ヶ嶺・旗巻峠の戦いで敗退。これにより九月二十四日、降伏。戦いが終結した。
これらのみじめな戦いぶりが、藩祖伊達政宗以来、武勇を誇り、奥羽の覇者或いは奥羽探題を自任していた仙台人士の自尊心を喪失させたばかりか、時勢に対応できる人物が存在しなかったとし、明治新政府から「白河以北一山百文」と蔑視された。
このような仙台藩の崩落過程を追って見ていきたい。