慶義の人柄について直接的に接して感じたのは、小樽で成功した後を除けば、このわずかな期間だけです。セキは小林廣と手塚英孝に対して、慶義についての印象を説明したはずです。
昭和21〜22年という同じ時期に、昔の記憶の同じ内容を話したに違いありません。昭和21〜22年のセキは満73〜74歳になっています。「小林多喜二研究」に書かれた「小林多喜二の生涯」から「母の語る小林多喜二」の出版までは60年もの隔たりがあります。
しかしながら、この頃の慶義についての印象は「幼い頃のセキの記憶」という共通の情報源でした。多喜二の母セキは明治6年(1873)8月22日の生まれです。明治5年(1872)の学制公布によって初等教育が始まったのですが、セキは小学校に通っていません。
そのため文字の読み書きができませんでした。その頃の女子にはよくあったそうです。多喜二が豊多摩刑務所に収監された際に、自分で手紙を書きたいため満57歳になってから文字を勉強したのは有名な話です。文字が書けないので日々の生活の中で日記やメモが書けません。
そのため大事なことは頭の中で何度も反復する習慣があったはずです。セキは近所では話し好きのおばあさんということで通っていたそうですが、その記憶力は誰もが感服するほど正確でした。
何度も話しているうちに記憶が固定されていったのでしょう。そのように記憶力が確かなセキなのですが、いったん間違って覚えてしまった場合は「修正する機会がない」という欠点があります。
慶義と末松の父多吉郎は田山ユキと結婚しました。ユキが死亡した後に斎藤ツネと再婚しました。慶義は浅利リツと結婚しています。