【前回の記事を読む】【小林多喜二の血縁者が記す】不確かだった人物像や周囲の人々、さらには誕生日まで――多喜二の深層を解き明かす謎解きの書
第1章 情報源
昭和23年(1948)に「小林多喜二研究1」が出版されました。これは蔵原惟人(くらはらこれひと)と中野重治が編集したものです。この中に「小林多喜二の生涯」という手塚英孝の文章が載っています。昭和 22年(1947)9月に書いたとあります。
これは小林多喜二に関する手塚英孝の最初の記述と思われます。次いで昭和33年(1958)に没後25周年にあたって単独著者として「小林多喜二」が出版されました。
その後も加筆修正されて昭和38年(1963)に新日本出版社版、昭和45年(1970)に新日本新書版上巻、昭和46年(1971)に下巻、そして平成20年(2008)に新日本出版社版となりました。これは多喜二研究のバイブル的な本であり多喜二研究者は必ず目にします。
これとは別に手塚英孝は昭和41年(1966)に「小林多喜二の生涯と業績」を書きました。これは改稿され「小林多喜二小伝」として定本小林多喜二全集の第15巻に載っています。
第6章で詳しく触れますが、多喜二の母セキが慶義(けいぎ)の弟末松と結婚したのは明治19年(1886)12月17日です。慶義とは私の曽祖父の小林慶義です。
この時セキは満13歳3ヶ月でした。その直前、11月27日に慶義が土地購入の内金を払ってから、不動産兼貸金業者とのトラブルが生じました。まもなく明治20年(1887)になり慶義は訴訟を起こしました。そのため裁判に奔走することになり、本来の家業などする暇もありませんでした。
この時満13歳のセキは慶義の走り回る姿しか見ていません。裁判は不利な展開となり慶義は仙台や東京で暮らすことになりました。そして結局は故郷に帰らないまま小樽に渡りました。セキと慶義が同一空間で生活していたのは1年間もありません。