谷口の勤務する建設会社の施工ではなかったが、その高層マンションは交通の便も良く、好立地でありながら広々とゆったりとした造りになっているそうだ。栞が地下鉄の中で見かけた広告にも随分豪華な写真が載っていた。
ワンランク上の暮らしが実現できそうなイメージのマンションは、結婚に憧れる栞にも美香にも魅力的だったこともあって、マンション建築の内情に詳しい谷口の話を皆興味深く聞いた。
「まぁ、僕の安月給じゃとても手が出ませんけどね。でも立地が良ければ不動産としての価値は先々も高まりますから、若いうちにちょっとムリしてみるのもいいかもしれないと思っているんですよ。栞ちゃんは一戸建てとマンションだったらどっちに住んでみたいと思ってるの?」
谷口は栞の目を見つめ優しく問う。それを聞いた美香が、
「きゃーっ、素敵、羨ましいわぁ」と冷やかすから皆で大笑いになった。
終始礼儀正しく振る舞い、誰に対しても十分な気遣いをみせた谷口は、美香から文句なしの高評価を獲得した。
「栞、谷口さん、やっぱりいいじゃん、もう、すぐにでも結婚したっていいくらいじゃないの、新築マンションに住むのも夢じゃないよ。うん」
帰り際に美香はそう言って、確かに今夜の谷口を見る限りではその通りなのだろうが、そんなに単純にいくとは思えない何かがまだあるような気がしてならなかった。
それを誰かに上手く説明することは難しかったし、未だに谷口の気持ち一つ、はっきりと聞けずに悩んでいることを美香にも言い出せずにいた。
今夜は美香が谷口のことをとても褒めてくれて、楽しい時間を過ごせたのだからそれで良かったんだ、栞はそう思おうとした。
けれど何が楽しかったのだろう。ドレッサーの鏡に向かって化粧水をたっぷりと付けている時に栞はふと思った。
美香が谷口とのことをお似合いだと褒めてくれたこと?
谷口が気遣いを見せて場を盛り上げてくれたこと?
それは私のためにそうしてくれたの? それは私のことを好きだから? 何を自分に問いかけても、どれも答えは見つからなかった。
答えが出たとしても、それが正しいかどうかは分からないからだ。いつも一人で我慢して、いつも一人で頑張ってしまう。誰にも上手く言葉では説明できないあれこれが、いつしかわだかまりとなって澱(おり)のように栞の心の奥に溜まっていくのだった。
次回更新は5月16日(金)、21時の予定です。