何年過ぎても、いじめは止まなかった。家族との関係も一向に改善しない。

中学に上がった時点で、私は学校へほとんど行けなくなっていた。学校に行けば「韓国人」だの「チョン」だのと陰口をたたかれ、無視までされる。学業もそんな状況では、はかどるわけがない。

そんななか、私に妹ができた。

嬉しかった。妹の話をする間は、両親も安心して落ち着いているように思えたからである。それでも、勉強をまるでしないで不登校を決め込む私に、父も母もがみがみとうるさい。

すべてを愛される妹と、存在している意味もないように扱われる私。

成長していく妹の姿を見ては、私は恐ろしい思いにとらわれることが多くなっていった。妹は可愛くて仕方なかったが、脳裏にフラッシュバックする光景がある。

草原を走る私。丸裸にされていく女の子。ぷらぷら揺れる小さな足に、黄色の靴下。

やがて、気が付いた。妹に優しく接したとしても、彼女に対する罪滅ぼしには全然ならない。

子どもの視野は、成長すると広がる。苦も味わえば悩みに打ちひしがれることもある。さまざまな経験が、子どもの視野を広いものにするのである。

しかし私の場合、このことは必ずしも当てはまっていない。何かを知るごとに、世界のすべてはくすんだ灰色の鉛筆で描かれた絵さながらに、あらゆる色彩を喪失していくのだから。

妹に対する罪の償いは今や全く不可能なことのように思われた。それに私としては、両親に溺愛される妹が羨ましくてならなかったのである。

「年端も行かぬ妹をこんなにも激しく憎んでいる、哀れな私。ああ。神さま、どうかお赦しください。こんな愚かな息子だけど、たった今天に召されるのだとしたら、お父さんの背中で泣いて死にたいのです」

真っ暗な闇の中に私はいて、手探りで物を探し出しては取り落とすような日々。

学校に戻ることはできなくて、不登校の生徒として制度上の特例を適用してもらい卒業はしたものの、友達と呼べるような人は一人もない。

それでも、生きていくには働くスキルを身に付けるより他なかった。それで専門学校に進学したのだが、学費のことから、父と生活することを余儀なくされた。

職業を持たない自分がそういう学校へ通うには、それがどうしても避けられないことだったというのは、もちろんよく分かっている。

でも……。

次回更新は4月24日(木)、22時の予定です。

 

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