霊川怨球
箱船は住居ばかりだ。働く場所も少なく、職住環境の改善が待たれる。当然、娯楽施設などなく、工場の敷地の中でキャッチ・ボールをしたり、カード・ゲームをしたりするくらいだった。
スズキ青年が新しく勤めた工場では、最近になって上層部で異動があったらしく、会ったことはないが新任の幹部は福利厚生に理解があったらしい。昼食後の休憩時間くらい、文化的な遊びをしたいじゃないか。
そういって遊休地にテニス・コートを造成し、ラケットとボールを与えた。みな競って備品を奪い合った。しかし備品は補充され、テニス経験者のコーチが所外から派遣され、一通りの訓練を受けた。
みな闘争を恥じた。その日からしばらくは遅刻や欠勤が大きく減った。昼休みこそコートの周囲では殺気立つが、生産性の向上に大いに役立った。
しかしラケットは四組しかなかった。自費であれば購入できると庶務課は答えた。競技には上手下手がある。その中で営業の若者が上達が早く、その上でマイ・ラケットを手に入れ、手入れに余念がなかった。世の中なにが流行るかわからない。
前からその若者は成績も良く、やがて幹部の一員に加わるのではないかと噂されていた。すると、成績の良い者はテニスも上手いという噂が生まれ、やがてテニスの上手い者は成績も良いと転じた。その上でマイ・ラケットである。
やがてマイ・ラケットを持つと幹部になれる、という噂というより都市伝説が成立した。
マイ・ラケットを誇らしげに手にしたスズキ青年は、夕暮れの街角を通り抜け、ひとり川岸で涼んでいた。喧噪を離れた街外れは、初夏の訪れを前にして静かな夕闇の中に沈んでいた。