その年の大晦日のことである。君は改まって父に呼ばれた。

「お前、医者を辞めてこの会社の経営を引き受けてくれ」

唐突な、半ば命令的な口ぶりとその内容に、君は大いに戸惑った。君の父はいうなれば仕事の鬼。六十歳を過ぎて益々事業拡大に意欲を燃やし、当時の花形事業であったデペロッパーに進出。船橋市沖に工業団地用の埋め立て事業を展開した。

埋め立てに伴う漁業権譲渡などとの引き換えに、住民の娯楽施設を作ってほしいという市の要望に応え、ボーリングをすると図らずも温水が出たので、小さな舞台付きの大衆浴場(のちの船橋ヘルスセンター)を建てた。そしてそこが予想外の盛況裡に、施設拡充に次ぐ拡張の最中にあった。

独自の会社を経営している長男は除いて、拡大した関連事業会社に次男・三男を配置していったところ、三男が担当していた祖父伝来の家庭薬製造販売会社の常務取締役の席が空席になった。そこで思い付いたのは、一年間役人の経験をして多少は世事に通じたであろう末子四男の君の活用であった。

君は若干の運命論者的な性格と、多角的な趣向の持ち主である。その両者が相応し、封建制の香りが消えやらぬ家庭の雰囲気も手伝って、父の希望に沿って次の人生行路への舵を切った。

着任した会社は、経営行き詰まりギリギリの状態だった。“シマッタ”と思ったが後の祭り。行き掛かり上耐えてたえてそれからの十三年間、実業界に在って人生の苦境を経験することとなった。

毎月末の手形決済に追われた。何しろ手形用紙が文房具屋で売られていた時代でもあり、融通手形の世話になることもしばしばであった。

この間、父も放っておくわけにいかず、腹心の部下の一人であるN氏を君の後見指導役として社長に据え、さらに救済策として恰好な会社との合併を目論み、

当時二部上場会社ではあったが低迷を続けていたT科学薬品工業に目をつけて業務提携を取り付け、提携の印としてN氏はT社の専務取締役に、君は営業・宣伝を担当する常務取締役を七期併任することとなる。

 

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