家族の気持ちは十分に理解できるが、渉太郎は引くに引けない状況となって懊悩(おうのう)した。思案に余って、立候補の身上書には家族欄を空欄のままにして、民自党神奈川県連合会事務局に提出することにした。

 

そんな中、選挙に向けた候補者選びが最終段階に至った。

自薦・他薦の候補者は三人。一人は二期目を終える現職。二人目は森永総裁派閥からの被推薦者。そして三人目が幸田渉太郎であった。慣例として二期十二年の在職が原則となっていたので、三期目を目指す自薦の現職議員の可能性はほぼなかった。

だとすると、森永総裁派閥からの候補者と神奈川フォーラム推薦の候補者の二人に絞られる。二人は三十代と四十代の共に政治経験のまったくない者であった。

渉太郎にとって大きな課題は活動資金だった。対抗馬は株式投資などの成功で多額の資金を持っていた。

民自党神奈川県連は、翌年七月に控えた次期参議院選挙神奈川選挙区の候補者を早急に決める必要に迫られていた。森永首相の不人気と加田議員の倒閣運動によって、神奈川県連としては政治色に染まっていない新進気鋭の人材の発掘が必須との流れで一致していた。 

ところが、加田議員の倒閣運動が「加田の乱」として終結して以降、森永総裁の影響力が急速な勢いで息を吹き返していた。神奈川県での参議院選挙立候補者がさも決め打ちされたかのような動きが民自党本部からあった。永田町の論理から森永派閥から推薦された候補者が俄然優位に立ってきた。森永派の県連陣笠も蠢動(しゅんどう)しだした。

 

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