「一九一二年四月、豪華客船タイタニック号が2224人の乗員を乗せ出航した。そして、北大西洋沖で氷山に衝突し、海に沈んだ。うち、1513人が亡くなり、710人が生還したという。一人勘定が合わないと思わないか。
救命ボートから外れた者たちは極寒の海に放り出され、数分もしないうちに凍りつき、哀れ海の藻屑と消えていった。おのれの運命を受け入れられない者もさぞかし多かったであろう。血も凍るような凍てつく暗黒の海で
『神よ、我を魚に変えたまえ! 命さえあれば、この身がニシンであろうがサケであろうが構いはしない! この息が途絶えてしまわぬうちに、寒流に棲まう魚にでもなっておれば生き続けることができる。死にたくない。何とかしてくれい』
と、哀願した者も大勢いたに違いないのだ。そしてたった一人、進化の逆を辿った者がいた。その者は、胎児が母体の羊水の中で初めに鰓(えら)を生じて、肺へと移りゆく、あの系統発生の逆を進んだのだ。
死を前にして、それを拒む激烈な精神が、本人の持つ極めて特殊な体質に働きかけ、時に生じた急激な環境変化にも適応する肉体改造を現実のものとした。この者はきっと人魚となって世界の海を回遊したことだろう。
昔、あるものの本で、北欧の漁師に捕えられた人魚が、これと似たような身の上話を涙ながらに語ったという話を読んだことがある。かくいうこの俺も、海のようにきれいな世界ではないが、このゴミ溜めの中で、同様な逆進化を遂げたのだ!」
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巨大な蛆虫は、そのような虚実混交な話を老人に聞かせたのだった。
ここまでの話を聞いた有三はいささか困惑気味であったが、さらに、奇怪な老人の話を聞くはめとなった。
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