塵芥仙人ごみせんにん

「そうだ、思い出した。俺の名は、確か中村通と言った。おお、朧気(おぼろげ)にもまだ過去の記憶が残っている。この穴に落ちたのは、昨年の冬だった。四十二歳を迎えたその年の冬だ。

その年はまさに受難続きで、会社が倒産して職を失った。このような凶報を家族の者に告げる勇気を持ち合わせず、しばらくは、毎朝会社に向かう振りをして、遠く離れた公園や雨天時には図書館で時を費やしていた。

このままでは長く誤魔化しは利くまいと、思い悩んだ末、蒸発を決め込んだ。今でも残してきた家族のことを考えると、胸が張り裂けるほど辛くて苦しい。四十二にもなると、新たな職に就くのは困難を極め、ホームレスに甘んじていた。

毎日の食事にありつくことさえままならず、小雪舞い散る師走の晩、辿り着いた先が、このゴミ処理場であったというわけだ。さもしいことに、ゴミを漁ればまだ食える物にありつけるかもしれぬと期待してやってきた。場内のあちこちを探っているうちに、行き着いた所が生ゴミ最終処理場であるこの巨大な穴だった。

獲物を求めてその淵に立ち、中を覗こうとした瞬間だった。今まで満足に食事をしていなかったのが祟ってか、急に血圧が下がってか、目眩が生じ、迂闊にもこの深い穴底へと落ちていったのだ」

蛆虫の声は確かに沈んでいた。老人は自分の置かれている立場も顧みず、意外にも応援する言葉を発していた。

「この穴から逃れる手立てはきっとある。あきらめるな!」

言葉が届いたか届かぬか、蛆虫は、力なく再び淡々と話し始めたのだ。

「女房や子どもたちを置き去りにし、人生をすっかり投げてしまったはずであるのに、浅ましきかな、命だけは惜しくて、俺は天に向かって命乞いをしていた。大きな声を精一杯張り上げて助けを呼ぶも、おのれの頭上には、何メートルもの高さに積もったゴミ塊が立ち開かり、そのために、声はすべて吸収されて穴の外には出ていかない。

仕方なく、臭くて不潔極まりないゴミの中で、ひたすら『生きたい、生きたい』と涙枯れるまでもがいていた。口に入ると思しき物は、それが原型を留めぬほどに腐っていようが、手あたり次第喰らうたし、汚濁の水も飲んだ。

一カ月ほど過ぎし頃、自分の体の変化に気が付いた。毛髪も体毛もすべてが抜け落ち、何とはなしに手も足も以前に比べると短くなっているような気がした。そしてもっと大きく変わっていったのは……」

眼前で悲愴極まりない話を続けるこの者の姿が絵空事ではなく、近い将来の自分であることに薄々感づいていた老人は、先を聞く勇気が持てず、一旦話を遮った。