「脱藩をするというのですか。そうなると藩では討っ手を差し向けますよ」
「小賢(こざか)しい……藩の討っ手など尽(ことごと)く返り討ちにしてくれるわ」
猛之進は顔面を朱に染めると額に青筋を立て吐き捨てるように言う。瑞江は先ほどからもう一つの考えを言おうか言うまいか迷っていた。
「もしかすると……仇討となるやもしれませぬな」
「うむ、それも良いであろう。仇討となればそなたの……谷口の家ではわしを討つためには誰が参る。まさか奥方というわけにもいかぬから弟御の万次郎殿……か。あの御仁ではそれがしを討つのはちと難しかろうな」
猛之進は、それとも……と、一人ごちるように口にしてから、瑞江に一瞥をくれると後の言葉を濁した。
「須田の家がそのようなことになれば、お父上様はどのように……」
「隠居殿か……父上は腹を切るかもしれぬ。母上が亡くなってからはあのような落ち込みようだ。自裁(じさい)は止めようもあるまい。弥十郎にも言えることだが、我らに子が授からなかったのが幸いしたようだな。もう一度訊くが……瑞江、そなたは何か申すことはあるか」
「おまえ様がその様にお覚悟を決めておいでになるのなら、わたくしが言葉を挟む余地などございませぬ。どうぞおまえ様のお考えどおりになされませ」
「そうか。では明日の朝暗いうちに国境(くにざかい)を越えることにいたそう」
「おまえ様……一つだけお聞かせ願いたいのですが……」
「ふむ……何だ。申してみよ」
「兄の弥十郎殿とは尋常(じんじょう)な立ち合いでござりましたでしょうね」
猛之進の形相が一変すると顔色が赤黒く染まった。
「何を申すか、瑞江。主人(あるじ)のわしを疑うのか」
「いえ、それならばようございます」
瑞江はそう言ったが夫の素振りから、胸の中に居座った懐疑的な思いが黒い塊となって離れようとはしなかったのである。
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