地方の学校では、いまのような受験競争もなく、自分の実力で入れる学校で満足するようなのんびりした学生生活でした。

そのような中で、中学二年生のクラスの担任だった先生(社会科の先生)に出会い、人間としての生き方、他人との付き合い方などを諭していただきました。

当時私のクラスでは弱い者いじめがはやっていました。先生は私に、「いじめは断固阻止すべきだ」と諭されました。また、先生に出会ったことで、勉強の大切さに目覚め、勉強を積極的にするようになり、成績も学内で飛躍的に伸びました。

その後、母親の勧めもあって、学区外の商業高校に進みました。

一人の恩師との出会いにより、将来の自分の人生を変えることができたことは、私の生涯にとって大変な幸せでした。中学を卒業して以来お会いしてませんが、感謝の気持ちを持って思い出すことができております。

1960年代初めに高校受験の夜間勉強では、よくラジオの深夜放送を聞きながら勉強していました。「ながら族」の走りでした。丁度、1961年(昭和36年)に「689コンビ」(作詞永六輔、作曲中村八大、歌手坂本九)が発表した『上を向いて歩こう』がヒットした年でした。

商業高校は、電車を二度乗り換え、駅から学校まではバスという、片道1時間半かかる長距離通学でした。その頃、多分、誰もが経験する初恋も経験しました。今は良い思い出です。

戦後の日本経済は、昭和30年(1955年)ごろから「高度経済成長期」に入っており、「重厚長大」システムの勃興期であり、工場では大量生産が本流となり、単純労働力を必要としていました。家族経営が中心の商店などでも、配達や店番などする労働力を求めていました。

1960年代の日本は、既に「高度経済成長期」にありましたが、高校への進学率は半数程度で、大学進学率は短大を含めても1割程度でした。

特に東北地方の義務教育を修了した15歳は、仕事を求めて集団で都会へ働きに出る「集団就職」を希望して、都会に夢を持って就職をしました。この年齢の若年労働者は当時「金の卵」として大切にされました。

学校を卒業した15歳達は臨時列車で上野駅の18番ホームに到着し、そこからそれぞれの就職先に引率されて行きました。

 

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